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「あれから」と、少しの「これから」

前回、インパクトのある体験を、勢いのままに記事にした。

溜め込んでいたものを一気に出して、ちょっとハイになっていたと思う。
これからは自由に書いていくんだ、という気持ちでいっぱいだった。

でも、色々あって、この記事を公開してからここに至るまで、結局ほとんど投稿出来なかった。

「口ばっかりじゃん」「どういう事なんだ」と……責める人がいるかはさておき、私の中には、そういうジャッジを下す思考もあった。

「毎日5分でも書きなさい」と言われ、そうできたらいいと思ったのは事実。

理想が高く、かつ自責が強い私は「そうでなくてはいけない」と強迫的になり、「習慣化の方法」などのノウハウ記事を読んだり、右往左往していた。

そして8月初旬、習慣化しようと色々こねくりまわしては挫折を繰り返していた折、ガイドが「ちょっと待ちなよ」と言ってきたのだ。

ガイドというのが面倒くさいのでもう言ってしまうが、この時対話していたのは大天使ミカエルだ。

ミカエルは、2021年の春にエーテルコードカットというエネルギーワークを知って以来、よく呼び出していた。

私が天使について知らなすぎる、というかあまり興味がなく、必要があれば情報は入ってくるというスタンスのため、この頃はまだコードカットのついでに、なんでもミカエルにお願いしていた。

「習慣化したいんだけど、うまくいかない、どうすればいい?」と迷えるわたしに、「まだやらなくていい」と。
「じゃあいつまで待てばいいの?」と聞いたら「うーん、年内はやめときな〜」と軽い口調で言われた。

そう言われたとき、「そんなに待たなきゃいけないの……」という落胆はありつつも、焦って悩むという事は執着なんだろうし、年末には占星術的に見ても個人的な節目があったので、素直に受け入れた。

という経緯があって、文章を書けども公開する事はなかった。というか、できなかった。
(あんな大それた事言っておいて、結局書いてないやん!恥ずかしい!と思い、上記記事をひっこめていた時期もある)

これは、ミカエルの言葉とセッションで言われた言葉の、どちらが正しくて、間違っているのか、という話じゃない。

強い言葉を言われて、強迫的になる自分。
頭がカッと熱くなり、いっきに理想まで高跳びしようとする自分。
そして、失敗した事を責め続ける自分。

そのパターンの裏には何があるのか。
それをしっかりを見なさい、と言うメッセージだった。

私は誰と話すときも、相手がどんなブロックを持っているかを観察する事がくせになっていた。

これはもともと、相手に嫌われないために、怒らせないためにと気をつけているうちに身に着いたもので、良く言えば「洞察力」なのだろう。

高次のメッセージを自分で受け取る事が増えてからは、他人からもらったアドバイスが相手のブロックやエゴの言葉なのか、それとも本当につながっていて、自分に向けられた言葉なのか、という判別をつけるために使うようになった。

相手の言う事がどんなにもっともらしくても、取捨選択をするべきは自分だから。

そう思っていた。

ただしこれがうまく機能しない時がある。この時はまさにそうだ。
そしてそういう時は大抵「答えがわたし(真我)の中にある」という前提が抜けていた。

前提が抜け落ちているそれは、洞察、あるいは直感などではなく。
そう見える程に研ぎ澄まされた、ただの「思考」だった。

思考だけでは、空回る。

それが嘘か本当か、「考えなければ」「判断しなければ」いけなくなる。

思考が悪いわけではない。
思考はただ回る。そういう機能のもので、なくせるものでもない。
ただし、それは内側と繋がった上で真に活きるものだ。

そして「答えがわたし(真我)の中にある」という前提が抜けている、という事は、つまるところ「自尊心が低い」「自己信頼に乏しい」という事。

要するに、私は「自分に自信がなかった」のだ。

自立したい。自立しているように見られたい。自分の意思でなんでも決めて生きていきたい。

そう強く望む裏側に。

相手に決めてもらいたい。他人に人生を委ねてしまいたい。そういう弱さが、潜んでいた。

それが今回、私が見るべき、向き合うべきところで、そこを見ようとしないまま、上辺だけ整えても上手く行くはずがない。

だから「待て」と、言われたのだ。

もしかしたら「四の五の言わずに書け」と強めに言われたのは、言い訳だらけで甘ったれている私の態度が、相手のブロックに触れたせいだったかもしれない。

でも、あんなに強く言われなければ、本気で取り組もうと思えなかったし、自分のエネルギーをもっと大事にしようと思えなかった。

私は本当に、それくらい自尊心が低いから。

でも逆に言えば、自尊心が低いからこそ。

強い言葉をそのまま盲信して、ハイになって。

自分の中の苦しみを無視して、必要のない努力をしようとしてしまったのだ。

この半年間、流れとしてはもっと前からそういう流れだったけど。
「自信のなさ」に徹底的に向き合わされていたのだと今にして思う。

書かないと死ぬので文章は書いていた。
大半が日記だったが、中には公開したいと思って書いたものもあったし、反対に書いたものを公開したいと思った事もあった。

しかし感情が、思考が、ブレーキをかける。

「本当にそれは私が書くべき言葉なのか?」
「私が書く意味はあるのか?」
わざと答えの出ない問いに持ち込んで、堂々巡りにする。

「どうせ私の言葉なんて、いまさら読みたがる人はいないだろう」と、投げやりになって、自己否定に走る。

「ろくに稼げてないのに趣味にかまけている暇なんてないだろ」と罪悪感を煽る。
体力がないのに無理やり家事を頑張って消耗し、「創作をする時間がない」と言い訳する。

いろんな手を使って、変化を拒む自我のコントロール。

なかなか形にできないこの数ヶ月の間、湧き上がってくる恐怖や罪悪感が、何による傷なのか、どういう経緯なのか……そういった事が知りたくて、探ろうとして、色々試していた。

でも、自我の抵抗は、本当に巧みで。
その自己探求すらも、いつの間にか「書けない理由探し」にすり替わっていた。

結局のところ私は、いろんな事がただ、怖かっただけだった。

自分の内側を、見たくなかった。
見てしまえば、変わらざるを得ないから。
もう変わっている事に、気付いてしまうから。

でも、少しずつ内側を見る事ができてきた今ならわかる。

本当は、言葉の表面上の意味どころか、相手のブロックであるかどうかすらも、どうでもいい。

だって、内側がすべてだから。

もし相手のブロックであったとしても、あれは私に必要な言葉だった。

必要な言葉というのは「受け入れて従うべき言葉」という意味ではなく。
「その言葉をトリガーにして、自分の内側に見るべきものがある」というサイン。

というか、「相手のブロックなら聞かない/そうでないなら聞く」というのも、一見自分の中に価値基準があるように思えるけど、外側のもの。

たとえどんなすごい施術者でも、占い師でも、霊能者でも、家族でも。
信頼のおける友人、パートナーであっても。
この人が言うから正しい、間違っている、という判断だけに囚われてはいけない。

言葉を発している相手は、鏡になって、自分に何を見せているのか。
相手の言葉によって、自分の内側がどう動いたか。

それを「心」で感じる事。
内側から湧き上がる自分の気持ちを「視る」事。
そして、噴き出した感情の、さらに奥にある真意に気付く事。
それは結果的に、相手の言葉の真意に気付く事と同じ事。

これが、昨今そこらじゅうで言われている「本来の自分で生きる」「ありのままで生きる」につながるプロセス。

言葉はきれいだし、簡単そうに思える。
でも、自分の内側を見るとき、見ないようにしてきた部分も必ず見なければいけない。

正直めちゃくちゃ怖くて苦しい。
だから、何度も逃げそうになったし、逃げていた。

まるで、暗闇の中を手探りで進むような心もとなさ。
星が見える夜もあったけど、雲がかかって見えない時の方が多かった。

それでも、なんとか。
あらゆる方面からいろいろなサポートを受けて。
この数日、ようやく、その暗闇を抜けた感じがある。

サポートとは。
現実で出会う人々はもちろん。
大天使やガイドなどの高次存在。
守ってくれている精霊や神さまたち。
なにげない日々の中の風景や、目にした言葉。
もちろん、脳内の推したちも。

それらすべてが、自分の内側から生じているのだと今ならわかる。


わたしはどうやら、今後、文章だけに囚われず、いろんなやり方で自分を表現していく、ようになるらしい。

「らしい」というのは、まだ少しおっかなびっくりな自分がいるからだ。
どこか他人事のようで、進むペースはゆっくりだし、焦って迷う事はこれからもあるだろう。

でもきっと軽くなるから、大丈夫。

エネルギーがどんどん変わっていくのを感じる。
自分だけじゃなく、全体でもそう。

潜在意識ではもう、かなり変わっている。
現実の変化はこれからだけど。

この先の未来はきっと、これまでと同じように見えても、まったく違う世界だ。

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