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物を買わずに豊かに生きる8

アメリカのシリコンバレー銀行の破綻から端を発して毎週のように出てくる金融不安。シリコンバレー銀行の後は、クレディスイス、そしてドイツ銀行。必死に信用不安を覆い隠そうと躍起になる政府や各国中央銀行。資本主義の綻びは限界を迎えようとしているのではないだろうか。中央銀行は根拠のない紙幣を刷りまくり、実体の無いお金を増殖させてきたけれど、遂にはその泡が弾けて資本主義もろとも、世界を瓦解させようとしているようにも感じる。

折しも、占星術界隈では冥王星が水瓶座にイングレスして、今まで当たり前だった古き体制が壊れていく期間に入ったことを予言してくれている。

私は最近よく考えているのだが、人はお金を理由に死ぬ人もいる。事業が失敗した、投資に失敗した、詐欺にあったなど、さまざまな理由でお金が無くなった人。借金を背負った人。その人たちの中には自ら命を断つ人もいる。これから、資本主義が瓦解していく時に、当てにしていたお金が紙屑となった人々は、悲観してどうなるのだろう?お金を信仰している現代人は、これからの時代なにを思う?

私の星座、太陽は水瓶座で月は蟹座で、シモーヌヴェイユと同じだそうだ。あのソルボンヌ大卒の才女が工場労働を経験してみたりして、社会の不条理をとことん考え抜いたヴェイユの精神が私の精神と深いところで共鳴している。私はどうしても社会の不条理が放っておけない。その点でどうしてもヴェイユと似たところがあると感じている。

この社会は、新自由主義が跋扈する、弱肉強食の社会である。お金を稼いだものが勝ち組の格差社会。お金がなければなにもできないように錯覚するような資本主義末期の現代において、お金に悲観した人が生きることを諦めてしまうものもいる。これからますます多くなることと思う。

私は江戸っ子の『宵越しの金は持たない』精神を尊びたい。生きることと、お金は別である。裸一貫で社会的にも何もない人、それでも楽しく生きている人。その人こそ、新時代の人類だ。

私の大好きな中沢新一のアースダイバーから江戸の精神を少しだけ引用する。

人生が盤石な基礎の上に打ち立てられている、などという幻想を抱くことができるのは、堅い洪積地の台地の上に町をつくった、山の手の連中だけなのではないか、あの連中は、自分の生きている世界が、不安定な動揺をひそめている、巨大な鯰の背中の上に乗っかっている、きわめて不確実なものだなどとは、考えていないように見える。その証拠に、ちょっとでも自分の前途が見えなくなると、あの連中はすぐに不安になったりする。
 ところが、低地でははじめから、人生は不確実なものだと、みんなが知っている。なにしろそこでは沖積地の上に、暮らしが営まれているのだし、人の生存がもともと不確かなものであるという真実を隠すために、人が自分の身にまとおうとする権力やお金も、低地の世界にはあんまり縁がない。下町最大の「聖地」とも言うべき立石様が象徴しているように、ここでは大きくて、堅固で、見栄えがよくて、盤石で、偉そうに見えるものなどは、たいして重要に思われたことがない。それよりも大切なのは、飾り気のない真実である。
 人生が不確実であるということは、逆に柔らかく動揺をくりかえす、母親のからだのような宇宙に生きていることの、なによりの証ではないか。そのためだろうか、下町を歩いていても、自分が堅牢であることを誇りにしているような建物には、めったに出会わない。下町の哲学とは実存主義である。

増補改訂アースダイバー 中沢新一(2019) p231 

自然の富は無限ではないから、むやみに乱獲することはできない。技術が向上したからといって、獲物を一網打尽にすることは許されない。そこから狩猟民に特有な環境倫理が発達してきた。狩猟民は有限な自然の富を前にして、まず「あきらめ」を知らなければならなかった。この「あきらめ」に裏打ちされた倫理があったればこそ、人類は数万年もの間、地球環境を壊さないで生きてこれた。
 農業革命が、このバランスのとれた生き方を壊してしまった。農では、大地に種籾をまいて「投資」をおこなうと、大量の「利潤」をともなった収穫が可能になる。そうなると、耕作地を増やし、労働力を投入していけば、いくらでも富の生産の拡大がしていくと思われた。農業革命をきっかけとして、人類はそれまでの狩猟民的な、「あきらめ」を知る生き方を捨てて、貪欲を追求する動物に変わっていった。この根源的な貪欲さが、現代の資本主義にまでつながっていく。
 ところが、海民的な心性を持ち続けた人々の中には、こういう考えを受け入れ難いと感じる感性が生き続けた。どんなものであれ、欲望のあくなき追求はむなしい、と感じる心情である。何よりもそれは美しくない。内心にもったりとした欲望を抱いていると、生き方の切れ味は鈍くなる。
 こうして後世、芸妓や鳶の心に、「あきらめ」に裏打ちされた人生のスタイルを、美にまで高めていこうとする心情が発達することになった。事実、江戸っ子が「イキだねぇ」と称賛するもののすべてに、思いっ切りのよい、ある種の「あきらめ」が浸透している。じつに「いき」は、江戸下町に生きる庶民の間に発達した、精神の貴族主義なのであった。

増補改訂アースダイバー 中沢新一(2019) p271

狩猟民のように、今日という日を精一杯生きて、燃やし尽くす。明日は何が起こるかわからない。あきらめの美学。富の蓄積ではない、欲望の増殖によって鈍くなるような鈍い生き方ではない、軽い生き方。場合によっては全財産を気分で困っている相手に贈与するような「いき」な生き方。下町人情の美学が、これからの資本主義が壊れゆく世界において、どれだけ尊ばれるべき生き方であろうか。

私の精神を高めてくれた尊敬する心の師匠、+Mさんが偶然にも書いてくれた言葉が、いまの私の言いたいことのすべてであったのは、とても素晴らしいことです。いつもながら勝手に引用させていただいて、今回の記事のむすびとします。


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