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テレフォンレディのNさん

先週のことである。
売り場にある電話が鳴ったので出ると、事務所のKさんからだった。
「お客様から、靴売り場にお電話です」
よくある取次のパターンである。はいはい、と電話に出ると、
「あのう、靴修理のお店にって頼んだんですけど、そちら違いますよね?」
というお客様の戸惑った声がして慌てた。
店には靴の修理や時計の電池交換、刃物研ぎなどを専門にする業者がテナントとして入っている。どうもKさんがお客様の仰ることをちゃんと聞かずにこちらに回してきたものらしい。
平謝りに謝って、電話を件のテナントに回した。
「Kさん、電話の取次ぎくらい、ちゃんとしてよね。お客様に失礼だよね」
横で聞いていたYさんが憤慨していた。
Kさんほどいい加減なのは困るが、大人でも電話応対の上手な人は少ない。ふと、若い頃お世話になった電話応対の名手?を思い出した。

若い頃、就職して配属された店で最初にやらされたのは『電話取り』であった。
まだ昭和の香りがプンプンしていた頃であるから、直接お目にかかる以外でお客様とコミュニケーションをとる手段は、主に電話であった。失礼のないように、出来るだけ短時間でお客様の要件を聞き取り、自分で判断して的確にさばくのは、思っていたよりずっと難しいことだった。最初のうちは電話が鳴るのが恐怖でしかなかった。支店名と自分の名前を名乗り、しどろもどろでお客様の仰ることに応対していく作業は、一日やるとぐったり疲れた。

店には『テレフォンレディ』と呼ばれる、電話取り専門の職員がいた。Nさんというパートの女性で、年齢は四十代後半から五十代。ほっそりと背が高く、いつもふんわりといい香りのする人だった。
「Nさんは、電話応対マナーコンテストで全国一位になった人やから、しっかり教えてもらうようにな」
店長に紹介された時、『へえ、このパートさんがそんなに凄い人なのか』とちょっと意外に思いながらNさんにどうぞよろしく、と挨拶した。
「わあ~かわいい!店長、新入行員の皆さん、本当に初々しいですねえ!はいはい、私で出来ることは何でもさせて頂きますよ!」
Nさんはよく通る綺麗な声で言うと、私達新入行員に優しく微笑みかけた。
「Nと申します。よろしくお願いしますね。娘が丁度皆さんより少し下くらいなんです。だからお母さんと思って下さいね」
緊張ばかりの日々に、ちょっとホッとしたのを思い出す。

お客様は色んな事を言ってくる。営業課員への言伝もあるし、店への苦情もある。よく聞き取れない声もあるし、受話器を離さないと耳がおかしくなりそうな人もいる。
困るのが怒っている人である。自分が悪いことをしたわけではないのだが、相手の様子にドキドキしてつい怯んでしまう。どう言葉を発すれば良いのか、本当に悩んだものだった。
Nさんはどんな時も常に冷静だった。お客様から
「お前に話をしても埒が明かない。誰かわかっている人間に代われ」
と言われてしまうと、Nさんは私の困った様子を見て全てを察し、目顔で頷いて受話器を私から受け取った。
「お待たせ致しました!お電話代わりました、Nと申します。この度はお電話ありがとうございます!はい、はい、さようでございますか」
とじっくり丁寧に要件を聞き取っていく。怒っているお客様でも言いたいことは何なのか、時折聞き返しをしたり、お客様の言葉を繰り返したりしながら明確にしていく。
最後にはお客様は大抵矛を収めてしまう。時には談笑すら始まってしまうので、私は何度も驚かされた。
「最初に応対しましたのは、研修中の新入社員でございまして。まだ慣れておりませんので、失礼を致しました。これからもどうぞよろしくお願い申し上げます」
とさりげなく言いながら、ウインクして下さるのも忘れなかった。

お客様の中には、
「Nさんの成績が上がるんだったら」
とお預入れして下さる、Nさんのファンも大勢いた。パートさんなので、お預入れをどんなに頂いてもお給料は変わらないのだが、そんな時Nさんはお客様のところまで行って、
「○○様、いつもお世話になっております。この度はありがとうございます」
と丁寧にお辞儀をしていた。
声だけでこんなにファンが出来るものなんだ、と感心した。

私は『電話応対完璧ですね』とよく言われる。今の職場でも最初に電話を取った時、当時の課長に
「慣れたもんですね!皆さん嫌がるんですけど」
と感心された。
Nさんの教育の賜物である。
電話は相手の顔が見えないから、難しい。でも、声は本当によく人の気持ちを表すものだ。だからこそ、応対一つでお客様は良い感じを受けたり、怒ったりする。
若いうちにNさんのそばで学べたことは、本当に有難いことだったと思う。

Nさんはもうずっと前に退職され、趣味のガーデニングに勤しんでおられた。娘さんは某放送局のアナウンサーとして就職されたそうだ。きっとNさんに似て、美声の持ち主なんだろうと思う。その娘さんももう、出会った頃のNさんくらいになっておられる筈だ。
当時はただのパートのおばさんという認識しかなかったけれど、今となってはとても大事なスキルを伝授して下さったのだなあ、ととても感謝している。
久しぶりにお目にかかってみたいなあ。