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鈴木秀之のノート。

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(令和3年3月14日〜)
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2024年5月の記事一覧

シンセサイザーと20世紀の新しい音楽。

シンセサイザーと20世紀の新しい音楽。

昨日のブログでは、NHKプロデューサー・神原一光さんの著書
『WOWとYeah 小室哲哉 起こせよ、ムーヴメント』をね、
とくに10代のころ、小室哲哉さんプロデュースの音楽を
聴きまくって育ったと言っても過言でないぼくは、
書籍の全編、ずっと、わくわくしながら
読んでいたことを申しあげました。
昨日しるしたこと以外にもね、いろいろ
想った場面はあるですが、そのなかでも
小室さんの演奏される「シンセ

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ムーヴメントと新しい揺れるリズム教えて。

ムーヴメントと新しい揺れるリズム教えて。

先日はね、NHKプロデューサー・神原一光さんの著書
『WOWとYeah 小室哲哉 起こせよ、ムーヴメント』
を読みました。この書籍は、以前NHKで放映されました
小室哲哉さんへのインタビュー番組から、さらに
深くインタビューをされての出版とのことでして。
現在42歳のぼくは、10代のころ
小室さんプロデュースの音楽を聴きまくって育った、
と言っても過言でなくって、書籍全編ずっと
わくわくしながら読

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時を越えて会ってお話しをするイメージ。

時を越えて会ってお話しをするイメージ。

前回noteでは、人と会って話すのも、
そして、本を読むのも、
どちらも大切だよなあ、というのを申しまして。
このことをね、さらにつづきとして
もうすこしだけ考えてみるとすると、
人と会う、という状況とは、
ある意味では限定的だなあ、
って感じて。つまり、たとえば
有名人、著名人、要人、立場の全く違う人、
また、遠隔地や外国に住んでいる人には
会うことはむつかしいから。
そして、亡くなった人には

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書物を読む大切さと新しい伝説へ。

書物を読む大切さと新しい伝説へ。

(今回のブログではゲーム内容のねたばれがあります!)

本を読んでも学べない、
人と会わないとだめだ、というのを聞くと
もしかしたらそうなのかもしれないとも思いつつ、
でも、読書を好きなぼくとしては
そんなことないんじゃあないかなあ、
ってゆうのも思いたいけれども。
もちろん、人と会うことは大事なのだとしても
このような言説のとおり、本当に
本を読んでも何も学べなかったとしても、
本のことをそこま

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これまで行けなかった場所になんとかして行く連続。

これまで行けなかった場所になんとかして行く連続。

ゲームの本質とは何か? というような
くわしいことはぼくはよくわからないけれど、
でも、ぼくなりに、ゲームの要素のひとつとして
重要だなあと思えるのは、
「向こう側へ行く」なのでして。
つまり、たとえば、
扉の鍵を開けて向こうの部屋へ入る、とか、
ジャンプで乗り越え向こう岸へ渡る、とか、
塞いでいるものをどかして先に進む、とか、
謎を解きその先にある宝箱を開ける、とか、
ボスを倒してさらにその先を

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過ぎ去りし時と世界の成り立ちと。

過ぎ去りし時と世界の成り立ちと。

(今回のブログではゲーム内容のねたばれがあります!)

4月半ばごろから、ぼくはこれまで未プレイでした
Nintendo Switchのゲームソフト
「ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて S」
をプレイしておりまして。
先日のGWでの連休もね、ひたすら
「ドラクエ11S」の世界を冒険して過ごしながら、
このごろようやく、まだ、やりこみ要素は残れども
そろそろ終えどきかなあと思っているの。

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どうしてそう定められたの?

どうしてそう定められたの?

この世界には、いろいろな単位がある。

「メートル」とか、「グラム」とか、「リットル」とか、
のようなお馴染みの単位だけでなくて、たとえば
「ワット」やら、「ヘルツ」やら、「カロリー」やら、
「ビット」やら、「ガロン」やら、「ラジアン」やら、
「モル」やら、「ジュール」やら、「デシベル」やら、
「度」やら、「パスカル」やら、「ニュートン」やら、
これらのもっとほかにも、理科や数学でも習ったけれど

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自発的と文章における欲求について。

自発的と文章における欲求について。

ぼくは日々、この「note」という場所で
こういうようなブログを書いているけれども。
あらためて考えてみれば、ブログとして
文章を書くことって、なんだか
けっこう不思議だよなあと思えてくる。

文章を書いて、その文章を
インターネットで公開すると、もしかしたら
だれかが読んでくれる、はたまた、
ぼくも、インターネット上で
だれかの書かれた文章を読むことができる。

これはよく言われる言い方やもしれ

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文章を書くということは。(選択にゆだねられているver.)

文章を書くということは。(選択にゆだねられているver.)

このごろのブログでは、あることばを
漢字で書くか平仮名で書くか、というのを
考えながら申していたですが。
ぼくとしてはね、あることばを
漢字で書くか平仮名で書くか、って、
ある意味ではどちらでもよいとも思っている。

文章をしるすときにおいて、たとえば、
文法上、平仮名で記すのが正しくとも
漢字で書いたとしてもよいし、そして
常用漢字では無い字を使ってもよいし、
逆に、漢字で書いたほうがよい語句を

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それぞれどのようなちがいが生じるのか。

それぞれどのようなちがいが生じるのか。

前回noteでは、あることばを
漢字で書くか平仮名で書くか?
ということについて、たとえば
「隠ぺい」「ほう助」「破たん」などを
例に挙げて申しあげました。
このつづきとして考えるとすれば、熟語の
いっぽうの字を平仮名で表記されることばとして、
「障がい」という語句をよく目にするのですが、
このことばをどうしてそのように表記されるのか、
というのはぼくは詳しいことは存じない。

滝川一廣さんの著書

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あることばを漢字で書くか平仮名で書くか。

あることばを漢字で書くか平仮名で書くか。

おとといのブログでは、お願いをする場面で記される
「お願い致します」ということばは、じつは
この表記はまちがいで、ただしくは
「お願いいたします」と、「致す」を
平仮名で書く、というのをネットで見ながら
ぼくなりに思ったことを申しました。

そこからさらに調べてみるとね、この
「致す」を平仮名で記すのは、文法上
「補助動詞」は漢字で書かない、
とのことなのだけれど、それは、文化審議会国語分科会より

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ことばとはなにかよりわからなくなってくる。

ことばとはなにかよりわからなくなってくる。

「慇懃無礼」という語句を初めて知ったとき、
その概念にことばを付けた人、
すごい! と思ったんだった。

「慇懃無礼」とは、『広辞苑(第七版)』によれば
【うわべはていねいなようで、実は尊大であること。】
とされていて、また、そのうちの「尊大」とは
【たかぶって偉そうにすること。横柄。傲慢。】
とのことでして、つまり、ていねいなことば及び
敬語で話していたとしても、その裏では
相手をばかにしている

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なにかをお願いするときには。

なにかをお願いするときには。

以前、SNSやネットニュースで読んだのは
「お願い致します」と文書で記すときには、
その「致します」を、平仮名で
「お願いいたします」とするのが正しい、つまり
「お願い致します」という表記はまちがい、
というものでして。その理由とは、
「お願いいたします」と記すときの「いたす」は
文法的には「補助動詞」であり、
動詞とする「致す」とは用法がちがう、
という説明がネット検索するとたくさん書かれている

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「敬語」について考えること。

「敬語」について考えること。

大人の年齢だと言えるぼくは、でも、
敬語って、恥ずかしながら
いまだむつかしいと思える。
そしてまた、学習塾講師として勤めるぼくは
小学生や中学生の生徒さんに、国語の単元で
敬語の考え方を教えるのもむつかしいと感じる。

敬語には、大きくわけて
尊敬語、謙譲語、丁寧語があるとされるけれども。
このなかでは、みっつめの
「です」「ます」等をつける言い方の丁寧語は
わかりやすいとしても、でも、
尊敬語

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