見出し画像

戀という字を分析すれば

(「人魚姫症候群」の続編です。前作を読んだ上での閲覧をお勧めします。)


海里みなは鯉が好きだ。


大学に入って初めて開けたピアスは錦鯉をモチーフにしたものだし、長年付け続けているストラップは悠々と泳ぐ鯉の姿を切り取ったものだ。なぜ好きなのか、と問われると理由はよくわからない。可愛いから、華やかだから、色合いが好きだから。いくつか挙げることはできるけれど、どれもこれもただ表面的な言葉にしか感じられないのだ。もっと根源的な、心に深く根ざした理由がある気がするのだが、みなにはそれをはっきりと知覚することはできなかった。


「あら、また鯉?」
オーブンからこんがりと焼けたクッキーを取り出すみなの手元を覗きながら、サークルの同期である藤城佐助はそう呟く。
「みなちゃんはホント鯉が好きよねー。」
「可愛いじゃん、鯉。さっちゃんとのお茶会が楽しみで張り切って作ったんだから。」
「嬉しいこと言ってくれるじゃない。さしずめ勝負クッキーとでもいうところかしら?」
「そんな感じ。」
みなは手早く今しがた焼きあがったばかりのクッキーをバスケットに盛り、テーブルに運ぶ。あたりにはバターの芳香が広がっている。
「なんていうか、ね。鯉にちなんだものを持ってると不思議と前向きになれるの。だから失敗したくないときとか、あとは楽しみなことがあるときとかによく身につけるんだ。」
「じゃあ、みなちゃんに鯉のイメージを持ってるあたしはみなちゃんに気に入られてるってことでいいのかしらね。」
「当たり前でしょ、さっちゃんは親友だもん。」
ポットはあらかじめ淹れておいたミルクティーで満たされている。テーブルの上にはクッキーだけではなくチョコレートやカップケーキ、マシュマロなどが所狭しと用意されていた。佐助は慣れた手つきでティーカップにミルクティーを注ぎ、そっと腰を下ろしたみなの前に置く。
「それにしても、みなちゃんの鯉好きはまさに「鯉に恋してる」って感じよね。」
「恋……」
「そ、恋。鯉グッズを探してるときのみなちゃんなんて、目がキラキラしてるしね。」
前世では鯉と結ばれてたのかもね。自分のカップに紅茶を注ぐ佐助のそんな軽口に、なぜかちくりとみなの胸が痛む。
「恋……してるのかな。」
「ん?そうねえ……みなちゃんは鯉と一緒にいたいと思う?」
「……どうだろ、考えたこともなかった。」
本当に?どこかでみなに問いかける声が聞こえる。
「鯉と一緒にいたい、一緒にいると幸せだって思うのならそれは恋かもしれないわね。」
佐助はゆっくりと椅子に腰掛けながら、角砂糖を一つ摘み上げる。ぽとん、と小さな音を立ててその白い立方体はベージュに吸い込まれていった。
「一緒にいると幸せ……か。」
「けれど……もしそれを叶えようとするなら、それはなかなか難しいでしょうね。こちらの想いを伝える手段も、あちらの想いを知る手段もないわけだし。……それこそ鯉が人になるようなことがあるなら別だけど。」
--あたしは助けてくれたあなたに会いたかった。
誰とも知れない声がみなの頭に響く。それは、知らない声のはずなのにどこか懐かしく、どうしようもなくみなの心を締め付ける。
「人、に……」
「ふふっ、例えよ。例え。……何にしても、お互いの間の差が大きければ大きいほど恋を叶えるのは難しくなるのよね。恋は泡沫のように儚く、淡いものだもの。」
佐助の耳でシャボン玉を象ったピアスが揺れる。
「人魚姫は声を失ってまで陸に上がっても、最後には泡になって消えてしまう。手を取り合うにはお互いの距離が遠すぎたのよ。」
「……っ、でも」
--手、繋いでもいいかな。
「人魚姫は泡になっても、気持ちは伝わったよ。結果的には消えることになっちゃったけど、でも恋は叶ったよ。」
「ずっと会えなくなったとしても、それは叶ったと言えるのかしら。」
「言えるよ!」
気がつくと、みなの目からは大粒の涙が零れていた。みな自身にもわからないほどの感情の波が押し寄せては、それが涙になって溢れ出す。
「だって、だって……これからも、ずっと、一緒って……!淡島さんと、約束したもん……!」
『海里さん、このシャボン玉をずっと見てて。絶対に、目を離さないで。』
『いいけど……どうして?』
『おまじない。これからあたしたちがずっと一緒に居られるように。』
みなの脳裏に、鮮やかなその記憶が立ち上る。淡島にしき。人魚姫のように消えてしまった、みなの初恋の相手。みなが恋した錦鯉。
「……少し、意地悪しすぎたかしらね。」
佐助はそっとみなに手を伸ばし、その涙を拭う。
「にしきのことは忘れていると聞いていたけれど、鯉が好きなのを見てもしかしたら……って思ったの。辛いこと思い出させてしまって、ごめんなさいね。」
「さっちゃん……淡島さんのこと……?」
「ええ、よーく知ってるわ。だってあの子はあたしのきょうだいだもの。それこそ、小さな時からずっと一緒だったしね。」
みなにハンカチを差し出しながら、佐助は語り始めた。


にしきが胡散臭い、魔法使いを名乗る男に人間にさせられたことはすぐに知った。しかし1匹の錦鯉である当時の佐助にできることはなく、ただ漫然と小学校の池の中で過ごさざるを得なかった。
事態が急展開を迎えたのはそれから5年ほど経ってからであろうか。佐助のもとに、奇妙な装束を身にまとった人間が現れたのだ。その人間は自身を魔法使いと名乗り、にしきを人間にした張本人であった。
《にしきはもうこの世にはいないよ。この世界から消えたのさ。人魚姫症候群の業を背負って、ね。》
--にしきがなんでそんなものを背負わなくちゃいけないの!?
《もともと人魚姫症候群自体が彼女を人間にする代償だからね。それをなくすにも、それ相応の対価が必要……わかるかい?》
--にしきが人間になることを望んだっていうの?
《ああ、望んださ。想い人に会うために……ね。僕はその望みを叶えたまでさ。
しかし、人魚姫症候群を消滅させる際に彼女から面倒なことを頼まれてしまってね。なんでも、人間から人魚姫症候群に関わる記憶を全て消してほしいそうだ。自分の存在も込みでね。僕も一旦は面白いと引き受けたんだが、これがなかなか難しくてね。完全に彼女の穴を埋めることはできなさそうなんだ。
そこでお願いなのだけれど、淡島にしきのきょうだいである君にその穴埋めをしてほしい。近い存在が代わりになることで、世界の整合性を保つことができるんだ。》
--あたしが引き受ける理由がないね。世界の整合性?知ったことじゃない。
《困ったねえ。このまま世界の整合性が取れないと、この世界が消えかねないよ。にしきが恋い慕っていた相手ごと。》
--脅す気なの?
《いいや、取引さ。君には淡島にしきの代わりに、もともとあった周囲の人のにしきに関する記憶を全て塗り替えてもらう。それさえしてくれれば、この世界はこのまま保たれるだろう。
そうだな、僕は優しいからね。もし役目をきちんと果たしてくれたら、君の望みを一つだけ叶えよう。僕に叶えられる範囲でね。悪い話じゃないだろう?》


「あたしは結局にしきの代わりになることを引き受けた。それは、にしきが大切にしていた世界を守りたいという気持ちと、にしきが見ていた景色を見たいという好奇心とが入り混じった感情からだったけれど、ここで過ごすうちにあたし自身がこの世界に魅了されていった。ただにしきの代わりとしてではなく、あたし個人として生きたいと願うようになったの。
だからね、みなちゃんとは最初こそ穴埋めのつもりで仲良くしていたけれど、いつしか心からみなちゃんには幸せになってほしいと考えていた。記憶を失っても鯉を大切にする姿を見て、その気持ちはより一層強くなったわ。あの子と……にしきともう一度会ってほしいって。にしきのことを、失ったままでいてほしくないって。」
しゃらん、とピアスが鳴る。佐助は虚空に向かって呼び掛ける。
「聞いているんでしょう、魔法使い。」
《……やれやれ、僕の頼みごとをいとも容易く反故にしてくれたね、君は。》
その呟きとともに、何もなかった空間から一人の人間が現れる。黒い装束に紫のフードを深く被った、彼とも彼女とも形容できない存在は、金色のネックレスをじゃらじゃらと鳴らしながらため息をつく。
《僕は淡島にしきの記憶を全て塗り替えろと言ったはずだけど?》
「塗り替えたわよ。だけどそれでもみなちゃんはにしきのことを心から忘れてはいなかった。あたしの力不足ではなく、あんたの力不足じゃないの?」
《あからさまに思い出すように誘導しておいてよく言うよ。……しかし、いない人間の記憶をそのままにしておくのは世界の道理に反するからね。本当はしたくなかったけれど、無理やりに記憶を閉じさせてもらうよ。》
「いない人間?何を言ってるのやら。いない人間なんて、この場のどこにもいないじゃないの。」
手を高くかざす魔法使いに、佐助は被せるように言葉を重ねる。
「ここには役者がみんな揃ってるわよ。ねえ、【淡島にしき】。」
その一言にみなは驚いたように佐助を見遣り、魔法使いはわずかに身動ぎをする。
「え、淡島さん、って……」
「文字通りよ。ただ、あたしたちの知ってるにしきとは限らないけどね。
考えてみれば妙な話さ。鯉を人間にして、世界に不自然なくねじ込める程度の力を持っているやつが、逆にその存在を消すのに手間取るはずがない。じゃあなぜあたしを穴埋めにしたか。みなちゃんに直接手を下すのが嫌だったんじゃない?自分の想い人から、自らの手で自分に関する記憶を消すのはなかなか勇気のいることだものね。それをする勇気がなかったから、わざわざあたしを代わりに立てた。違う?」
《……敵わないな、兄さんには。》
魔法使いがフードを外すと、髪が短いという差異はあるものの、顔立ちはみなや佐助が知っているにしきそのものであった。
「淡島さん……!」
《兄さんが言った通り、あたしは海里さんが知る淡島にしきじゃない。違う世界線……人魚姫症候群が広まって崩壊してしまった世界の淡島にしきなんだ。》
「崩壊って……どういうこと?」
《人魚姫症候群自体に人を殺める力はない。けど、人魚姫症候群にかかった人たちへの差別がひどくなって、やがてそれは恋人や夫婦の弾圧に繋がった。世界はどんどん人口を減らしていき、少なくなった人類の多くは番うことをやめた。子供は減り、人々はお互いに恋愛感情を抱いていないか疑心暗鬼になっていったんだ。
あたしと海里さんは恋愛関係になったけれど、呪いは解けなかった。これはあたしが調べたことだけれど、この呪いというのはかけた魔法使いが解除する必要がある類の魔法みたいなんだ。けれど私たちの世界では何らかの理由で魔法使いが死んでしまっていた。つまり呪いが永遠に解けない状態になってしまったわけ。
あたしは何とか呪いを解こうとして魔法を勉強したけれど、どうやっても解くことができなかった。だからせめて過去に飛んで未来を変えようとした、それがこの世界--私が魔法使いとして、この世界の淡島にしきに接触した世界。》
「だけどにしき、過去を変えようとして時間を移動したのなら、なぜ人魚姫症候群を防がなかったの?それさえできれば世界が崩壊することはないでしょうに。」
《残念だけど、あたしの時間移動にはいくつか制約があるんだ。一つ目にこの世界の魔法使いの役割をある程度なぞらなければいけないこと。つまり魔法使いがあたしを人間にして、世界に人魚姫症候群の呪いをかけたように、あたしも同じ魔法をこの世界の淡島にしきにかける必要がある。これはあたしが魔法を使えるようになったために、同じような役目を担っていた魔法使いの役割を踏襲させようとする、世界の強制力のようなものだと考えてる。
二つ目に、あたしが魔法使いと出会う前後までしか時間移動ができない。あたしが魔法使いに魔法をかけられる前に、別の魔法をかけるということができないということだね。
三つ目として、この世界ではあたしは【淡島にしき】として存在することができない。基本的に世界は同じような存在は二人と存在できないシステムになっているらしいんだ。兄さんにはそれを整合性という言葉を使って伝えたけれど、要はこの世界の淡島にしきがいる限り、あたしは淡島にしきとして存在することは不可能なんだよ。
この制約の中であたしにできたことは「魔法使いよりも先にこの世界の淡島にしきに魔法をかけ」、「その呪いを解除する」、「その上で世界の整合性を保つ」ということだった。だから人魚姫症候群そのものを防ぐことはできなかったんだ。》
「じゃあもし、私たちのこの世界が崩壊しなかったとしたら、淡島さん……魔法使いの淡島さんが来た世界も崩壊を止められるの?」
《それは……きっと無理じゃないかな。あたしがこうして過去に来てしまった時点でもうかつて私がいた世界とは異なっている。だから多分、こちらの世界の崩壊を止められたとしてもあたしの世界は変わらない。》
「……なら、どうして私たちの世界を守ろうとしてくれるの?淡島さんにはなんのメリットもないのに……」
《……海里さんが生きている世界を、どこかに作りたかったんだ。》
にしきはぽつりと呟く。
《あたしと別れてから、海里さんは人魚姫症候群の差別を解消しようと活動を始めていた。けれど、そんなのあの世界では許されるはずもなくて。気づいたときにはもう遅かった。
あの世界で守れないのなら、せめて、違う世界で海里さんが生きてくれていたら、それでいいって思ったんだ。
……だからね、今こうして海里さんが元気でいてくれて、すっごく嬉しいんだ。》
にしきは目を細め、みなの頬に触れる。
《こうして話せるとは思っていなかったけれど、会えてよかった。でも、淡島にしきの記憶を残しておくわけにはいかない。この世界にもう淡島にしきはいないから。》
にしきの手のひらから青い光が溢れ、みなを包みこもうとしたその時、その手を佐助が掴む。
「待ちなさい、にしき。あたしがあんたとした「何でも一つ願いを聞く」っていう約束、覚えているわよね?」
《何、急に……覚えているけど。だけど兄さんは海里さんの記憶を上書きできてない…》
「いいえ、確かに上書きしたわ。上書きして、それでも元の記憶があるって場合も、あるんじゃない?」
佐助はにしきをじっと見つめ、そしてこう続けた。
「淡島にしきはこの世界にはいないわ。けれど、あなたが今ここにいて、こうして言葉を交わした。それは紛れもない事実のはずよ。」
《……何が言いたいの。》
「みなちゃんは一度にしきの記憶を失くした。その上で、新たににしきの記憶を得たの。だからみなちゃんににしきの記憶があっても何にもおかしいことないわ。」
ね、と佐助はみなにウインクをする。佐助の言わんとすることがわかったのか、みなもそれに重ねるように頷く。
「そう、魔法使いの淡島さんに会ったんだから、いない人の記憶なんて持ってない!」
二人の真剣な目に気圧されたようににしきは押し黙るが、数瞬ののちにため息交じりに口を開いた。
《……つまり、兄さんは「海里さんの記憶をそのまま残す」ことを願うわけね。》
「そういうこと。それに世界の整合性っていうならもうあたしが埋めているわけだし、みなちゃんがにしきのことを他の人に話したりしなければ異常は出ないんじゃない?」
《……あたしの存在を、何かに残したりしないって約束できる?》
「約束する。」
《……だったら、記憶は消さないでおくよ。ただし、もしこの世界に淡島にしきの存在を表す何かが出現した場合には記憶を消しに来るから、そこだけは了承して。》
「わかった。ありがとう、淡島さん。」
「ありがとね、にしき。」
《まったく……まあ、でも、あたしを覚えていてくれる人がいるってのは嬉しいからさ。
願わくは、海里さんの記憶を奪うことがないように。そして、どうか二人とも息災で。
じゃあ、あたしはもう行かなきゃ。》
「!待って、淡島さん!」
みなはにしきを呼び止めると、その右耳からピアスを外してそれをにしきに渡す。
「私から何かあげるのはいいんだよね。だったらこれ、持ってて。
私のお気に入りのピアスなの。離れていても、この世界の淡島さんがいなくなっても、ずっと繋がっていられるように。」
にしきはきょとんと握らされたピアスを見つめ、やがて破顔する。
《ふふっ、そうだね。どこにいても、あたしたちは繋がってる。一緒にいられなくても、それでも、出会えてよかったよ。……みな。》
にしきが背を向けたかと思うと、次の瞬間にはその姿は消えていた。テーブルの上のミルクティーは飲み頃を通り越して冷め切ってしまっている。
夢のような時間の中、みなの右耳のピアス穴は大切な存在を確かに示していた。

ヘッダー:
https://www.flickr.com/photos/mynetbookos/6303463240/in/photolist-aB1U1G-fmtez-8rioGa-e4AUC7-o6q4VY-e4AUBo-4XV5pq-6kbgEd-6tJSx6-fh2kF-fmrBY-fh2iB-e4vr7z-4XVDfu-6tP1Hu-5ddWdz-e4AYDy-e4B2WL-e4vr96-4RCwkv-biw3sP-VGnDE-8Xusuh-4XQR7T-fUg1La-XK2QK-2ApwYb-rFkLVY-6HX1VV-e4B2SA-6HX34t-FpKupx-FpKviB-e4vj9K-e4B2Vq-e4AYEC-VGJcZ-e4AV5d-4KgPGk-a2pnqk-8bFAbc-7Mq4EZ-6U63WL-xMibss-o8Ew9j-e3Ddnk-e4AUwq-e4vrnR-JxMigW-qF1uVj

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?