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ブランチは甘い香りにのせて

少し遅く起きた日曜日の朝、趣味で飼っている熱帯魚たちに餌をあげ、前夜早くに眠りに落ちてしまったこともあり、散らかったままのテーブルを片付け、ぼんやりと何を食べるか考える。
そういえば前に、ホットケーキミックスを買っておいたなあ、と思い出して、パントリーを探すと、奥の方からその袋が出てきました。消費期限も大丈夫。今日は牛乳と卵もあります。
袋を見てみると、1人分くらいの分量が小分けになって大袋に入ってるんですね、最近のホットケーキミックスって。久しぶりに作って初めて知りました。
少し小さめのボウルに、牛乳と卵を入れて混ぜ、ホットケーキミックスを入れてさっくり混ぜ合わせ、バターやはちみつを用意してテーブルへ。
卓上で焼こうと思い、いつも使っている一人用のホットプレートを出して、お気に入りのマグカップにカフェオレを淹れて、ホットケーキを焼き始めました。
確か、油を引かずに焼くときれいに焼けるって聞いたなあと思い、温まったホットプレートにまあるく生地を流し入れます。
ふつふつと表面に空気の穴が開くのを見ていたら、幼い頃の記憶の扉が開きました。

母と二番目の父、弟と私の4人家族で新しい生活を始めた頃、住んでいた2DKのマンションのダイニングには、最初はダイニングテーブルと大きなステレオセットがありました。
子どもたちは決まって休日の朝は早くに起きてお腹をすかせているけれど、両親は休日ということもあって、少し遅い時間に起きてきて、9時すぎくらいにようやっと朝ごはんが始まります。
最初のうちはそのダイニングテーブルにトーストや紅茶を用意してくれて、それをなぜかチャイコフスキーの白鳥の湖を聞きながら食べるというのが定番でしたが、私が小学校に入ってからピアノを習うようになって、ステレオセットが置かれていた場所は、伯母が買ってくれたアップライトピアノが取って代わり、それからはテレビで「題名のない音楽会」を見ながら朝ごはんを食べるのがお決まりでした。
ちょうどその頃、ホットプレートが普及し始めて、わが家にも家族で使うのにちょうどいい大きさのホットプレートがやってきました。
夕ごはんにお好み焼きや焼肉をして楽しんでいたのですが、日曜日の朝はそれを使って、ホットケーキを食べることが多くなりました。
大きなボウルにホットケーキミックス1箱分の生地を作って、テーブルの上のホットプレートで思い思いに焼いて食べるのです。
生地を流し入れてからひっくり返すまでの時間のもどかしさや、焼き上がった時の甘い香りも懐かしいですが、ホットケーキが朝食になる日は、決まって母がホイップクリームやチョコレートソースなどを用意してくれていて、それぞれ好きな食べ方で楽しむ休日の朝の時間は、心温まるひとときでした。

そして、実際に食べるときもちょっとした遊びを取り入れながらホットケーキを食べるのが楽しみになっていました。
それは最初、父が弟にやってみせたことがきっかけになっているのですが、お皿の上に乗せたホットケーキをお星さまの形に切ったり、時には車や飛行機の形に切ったりして、それにバターとはちみつ、ホイップクリームをつけて食べるのです。
子どもはそういう遊びが大好きということもあって、好きな形にホットケーキをカットして食べるのがとりわけ楽しくて、ホットケーキを食べると、その頃の記憶が鮮やかに蘇ってきます。
そんな風に、自由にホットケーキを楽しむ中で、母が許してくれないことがひとつありました。
それは、ホットケーキミックスのパッケージ写真のように、ホットケーキを数枚重ねて食べること。
なんで駄目なんだろうと子どもの頃思っていましたが、母にしてみれば、焼きたての温かいうちに食べきってほしいという気持ちがあったのではないかなと今になって思ったりします。
この10年くらい、パンケーキブームもあって、いろんなお店ができたけれども、自分でたまに焼く以外は、外で食べることはほぼありませんでした。
たぶん、自分にとって子どもの頃の思い出の扉を開くカギになっているから、それに触れずにおきたかったのかもしれません。

母は内縁関係だった男性も入れると、3回の結婚をしているのですが、2番目の父は一番色濃い思い出を残した人でした。
実際に離婚するまでには7年ありましたが、一緒に暮らしたのは5年ちょっと。
計算してみてはじめて、その時間の短さを思い知らされる一方で、子どもにとっての5年間というのは、濃密で長いものなのだなということがわかります。
一緒に暮らし始めてから、離婚が決まってすぐくらいの頃までの出来事を、今でもつぶさに覚えていて、時々その頃の傷が心の中で疼きます。
2番目の父との間には、思い出したくないような出来事も起きていて、それについては数年前に、母から謝られたりもしたけれど、それでもその父と紡いだ数々の思い出は、自分が生きていく上での指針というか、こんな風に過ごすのが平均的な家族の姿、という、自分の中の家族のありかたの基準を、形作る要素になっているように思います。

いつだったか、母が早めの時間に同伴出勤で銀座のお店に向かう途中で、外から自宅に電話をかけてきて、自分の小物をしまっている小引き出しにアドレス帳があるけれど、そこにアートコーヒーの電話番号はないかと訊かれたことがありました。
通りかかったその店の中に、2番目の父がいたらしく、電話で呼び出せないかと考えたのだということを後で知りました。
あれから何十年もの年月が過ぎ、母も歳を重ねて老齢になったけれど、その頃のことや父のことを、どんなふうに今思っているのだろうと考えたりします。
父も元気に生きていれば、もう80歳になるのだということを、さっき検索して知りました。なぜか生まれ年だけは今でも覚えているのです。

甘い香りに包まれた休日のブランチが、開く記憶の扉と、溢れ出すたくさんの思い出には、自分自身で心に裏表紙をつけないと、いつまでもその思い出の中で生きることになってしまうなと最近は感じます。
いつまでも過去の出来事にとらわれていると、ひとは「いま」を生きることが出来なくなってしまうものです。
いつだったか、2番目の父を探し出して、母と会わせてあげられたらと考えたことがありましたが、しなくてよかったと今は思います。
それは、いまの母が、いまの暮らしを愛おしみながら生きて行くことは、とても大切だと思うからです。
父とのかつての喜びや悲しみの思い出だけでなく、胸を焦がすほど互いを愛したことや、そのあまりに憎んだことも、ふたりが主人公の本を読み終えるように、そっと閉じることができるように。
高齢になった母の心が、当時のあたたかな朝のように、晴れやかで穏やかでありますようにと願う私は、なんだかんだあっても母を愛しているんだなと改めて思わされるのでした。
よく、いつまでたっても、親にとって子どもは子どもというけれど、子どもにとっても親は親だなと思うし、できる形で大切にしていけたらと思います。

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