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フランス革命とフェミニズムー性から読む「近代世界史」③

第二章 フランス革命、共和制、ナポレオン帝国

ー1673~1815

・アカデミー、「コギト」、忘れられた思想家

 名誉革命より少し前の1673年、フランスで『両性平等論』という本が出版された。著者はパリの学生プーラン・ド・ラ・バールFrançois Poullain de la Barre。神学や哲学を研究していたプーランが20代で書きあげたとされるこの本は、真に革命的というにふさわしい内容であった。

 ちょうどこの頃までに、フランスでは王立アカデミーが設立されていた。中世ヨーロッパから始まる大学やアカデミーは、貧しい農民であっても奨学金を得られ、神学を身につけて聖職者になるなど身分を乗り越える道を開くものであった。しかし女性はこの知的世界から排除され、学識はほとんど男性によって独占された。公的な空間で活躍するのはつねに男性であり、女性は可能性を奪われていた。プーランの時代のフランスでも同じであった。男性はアカデミーにもサロンにも参加するが、女性に許されたのは私的空間であるサロンだけであった。
 
 プーランは自身が学問の恩恵を受ける身でありながら、男性が学問を牛耳ることの不正を見抜いていた。彼は「精神に性の違いはない」という考えから、女性の能力を信じ、科学であれ司法であれ、女性があらゆる領域で活動する権利を主張した[1]。
 メアリー・アステルと同様に、プーランはデカルトの哲学に惹かれていた。デカルトの言う「我思う、ゆえに我ありcogito, ergo sum」において、「我」は性別を問わない存在であった。デカルトは「我」の理性でもってあらゆる偏見を打ち砕こうとしたが、その理性は女性にも開かれたもののはずであった。もしある社会で男女の差が生じるとすれば、それは理性の発揮を妨げる慣習や教育のためである。
 その思想が孕む急進性にもかかわらず、デカルト本人は社会批判を避け、男女について言及することはなかったという。他方プーランは女性を貶める当時の社会を徹底的に糾弾した。適切な教育が与えられるなら、女性は男性と肩を並べて公的領域で活躍する力を解放できるはずである。彼は言う。

女には男と同じように考え、話し、振る舞い、見る権利があるにもかかわらず、男には許されている事柄の大部分が、気まぐれと習慣のために、女には完全に禁じられている

プーラン『両性平等論』

当時の常識であった夫による妻の支配も批判の俎上にのせられた。「夫が手にしている優越性は、横取りしたものである」。

 プーランは女子教育の必要が、女性の役割を縛るために主張されることの危険も知っていた。精神において差がないのだから、女性の貞淑と「母性」を謳う教育は、女性を愚かな存在に貶めるものでしかない。女性の劣位を信じたルソーより一世紀も前に生きたプーランは、その性の哲学においては、ルソーより遥かに革命的であった。忘れられた彼の求めた公正が再びフランスで叫ばるようになるには、百年後のフランス革命まで待たなければならなかった。

・サロンと男たち、ブルジョワジー、コンドルセ夫人

 「ブルース・トッキング」が開かれたイギリスと同様、18世紀のフランスでもサロンが盛んになった。女性が主宰するサロンでは、身分や性別を問わず自由に言葉が交わされた。だがサロンは、男性の女性についての考えを変えるものではなかった。サロンに通う裕福な市民(ブルジョワbourgeois)たちは、身分によって活躍の機会を阻まれていた。資本主義が発展する18世紀後半になると、ブルジョワたちは益々力をつけ、当時の階級社会にさらに不満を抱くようになっていた。
 サロンは宮廷や聖職など身分制に縛られた公職とは違い、内側でルールを決められる私的な空間であった。サロンで身分や性別の区別なく議論できるのは、そこが閉じられた私的領域だからである。ブルジョワにとって、身分を区別しないサロンでの議論は、外ではかなわない成功や名声を得るためのまたとない機会となった。多くの男性にとって、サロンの中で男女平等を装うのは利己心の故であり、ひとたび外に戻れば女性の劣位を当然とした。
 そのような男性たちの偽善を糾弾する者もいた。『女性の教育について』を書いたショデルロ・ド・ラクロは、女性の教育が不十分であるのは、男たちが自分の地位が脅かされるのを恐れているからだと主張した。

男たちは女たちが、...あまりにも知性を備えて自分たちと競合し、才能の平等を示すことまでは少しも望んでいない。男たちはみな、名声を得ようとする女たちを貶める傾向を心の奥底に持っている

ラクロ『女性の教育について』

 サロンに参加した男性たちのうちで、同じく女性の教育を重視した一人がニコラ・ド・コンドルセ Nicolas de Caritat Condorcetであった。貴族に生まれた数学者であり、後に共和派として革命に加わるコンドルセは、黒人や女性の正義を求めた哲学者でもあった。1781年に論文『黒人の奴隷状態について』を著して「人間を奴隷として売買し、束縛することは真の罪悪である」と黒人奴隷制を非難した[2]。
 1786年にソフィー・ド・グルシー Sophie de Grouchyと結婚すると、彼女の主宰するサロンで経済学者のアダム・スミスや独立宣言を起草したトマス=ジェファソンらと交流をもった。奴隷制や奴隷貿易に反対する「黒人友の会Societe des amis des Noirs」が1788年に設立されると、独立戦争を終えて帰国したラファイエットとともに協力して運動に加わった。妻グルシーはサロンに訪れたスミスの『道徳感情論』の翻訳も手がけた聡明な人で、コンドルセの男女平等思想に影響を与えたと言われている。

・革命前夜、働く女たち、ロラン夫人とメリクール

 革命前夜の18世紀後半、フランスの民衆は飢えと重税とに喘いでいた。アメリカ植民地をめぐるイギリスとの戦争に敗北して以来、フランスの財政は悪化の一途をたどっていた。独立戦争では愛国派を支援してイギリスに打ち勝ったが、巨額の援助により国家債務は倍増した。1786年の英仏通商条約により貿易が自由化されると、資本主義が加速するイギリスの製品があふれて国内産業は壊れ、何十万もの労働者が生活の糧を奪われた[3]。
 前代未聞の不況に凶作が重なれば、食物の価格が跳ね上がる。物価騰貴で裕福な地主がますます利益を上げる一方、土地も財産も持たない大多数の民衆はパンさえ買えなくなった。飢えの苦しみと不平等への怒りは、民衆たちを蜂起へと駆り立てる。革命以前に既に頻発していた暴動の先頭には、多くの女性たちがいた。彼女たちは臆することなく公道に現れ、怒声を上げてパンを要求した。
 
 当時、フランス女性を取り巻く状況はどうであったのか。パリなど都市部では、仕立屋、絹織工、長靴職人、八百屋、乳母・料理人などの使用人のほか、彼女たちは多種多様な仕事を担っていた。だが給料は男性の半分以下であるのがふつうで、働く女性たちはたえず貧困と闘っていた。人口の八割以上を占める農民の女性は、畑仕事で自給自足の暮らしを営んでいた。教会から課される税は重く、ほとんどの農村女性の生活も厳しいものだった。家や農村から逃げ出す女性もいたが、生活の苦しい女性は売春婦となって稼がざるを得なかった。貴族やブルジョワなど裕福な層を除いては、結婚していても家事だけしていればよいわけではなく、生きるために労働にも従事する者が多かった。
 都市でも農村でも、女たちの暮らしは総じて過酷なものであった。革命勃発の直前には、パリの女性たちの職業組合が国王へ『第三身分女性の嘆願書』を作成して送っている。

女性たちは自分たちの声を聞いてもらうことが出来るでしょうか。...フランス人は自由な人民であると言いますが、1300万人の奴隷が1300万人の専制君主によって、鉄鎖で縛り付けられています

『国王あての第三身分女性の嘆願書』

 危機の中、フランス政府はそれまで税を免れていた貴族と聖職者への課税を試みる。しかし貴族たちは国王ルイ十六世に反発し、第三身分である市民や農民を加えて会議を開くよう要求した。ここにおいて、第一身分である聖職者、第二身分である貴族、そして人口の98%を占める第三身分がヴェルサイユにて一堂に会することとなる。全国三部会と呼ばれるこの歴史的な会議が開かれたのは、1789年5月5日のことであった。

 ジャンヌ=マリー・フィリポンは、1754年のパリに生まれた。彼女は第三身分出身の女性でありながら、哲学者ヴォルテールやルソーの著作に強く惹かれていた。26歳で結婚すると、学者である夫の論文の手伝う傍ら教養人たちと交流し、自ら知性を磨いて思想を深めていった。夫の名前はジャン=マリー・ロラン。この女性はロラン夫人Madame Roland、或いはマノン・ロランという名で知られている。
 1762年には、隣国のベルギーでアンヌという名の女性が生まれる。富裕な地主の家に生まれた彼女は、退屈というものが許せず何度も生家を飛び出したらしい。10代でイギリスの夫人に雇われ音楽や読み書きを習うと、歌手を夢みてロンドンへ渡った。夫人との生活も彼女には退屈だったのか、アンヌは異国の地で娼婦となって自立した。何人もの男に貢がせる傍ら、ルソーなど思想家たちの本をよく読んだという。そんな中、フランスで三部会が召集されるとの知らせを聞き、アンヌは時勢が満ちるのを直観する。彼女はすぐにパリへ向かうことに決めた、テロワーニュ・ド・メリクールTheroigne de Mericourtと名を変えて[4]。 

 アンヌが読み書きを習っていたころ、パリで『ザモールとミルザ』と題する戯曲が書かれた。作者はオランプ・ドゥ・グージュOlympe de Gouges。第三身分としてマリー・グーズの名で生まれた彼女は、17歳を結婚を強いられるも、翌年に夫が急死、一人息子とともに独立した[5]。のちに「結婚は信頼と愛の墓場である」と書いた彼女は、信条から再婚はせずパリでサロンに出入りした。グルシー(コンドルセ夫人)のサロンにも参加したというグージュは、文学や芸術に触れ、政治家や哲学者たちと自由に語り合った。次第に彼女は、自ら物を書き、世に問うことを欲するようになっていく。
 『ザモールとミルザ』は1783年、グージュが33歳の時に発表された。この戯曲は架空の島を舞台に黒人奴隷制を主題化したもので、見るものに黒人への正義を問う内容であった。当時はまだイギリスとともにフランスでも黒人が奴隷にされていた。植民地と奴隷貿易で利益を上げていた貴族たちは、作品の上演を妨害し、初演に至るまで何年も待たされることになった。革命勃発の前年、グージュは『愛国的考察』という書の中でこう述べている。

商業は停滞し、職人たちの多くは地位もパンもない。無慈悲な金持ちたちは、欲深く搾取した金を隠し持っているが、こうした眠っている財宝が、誰かに利益をもたらすことがあるのだろうか

グージュ『愛国的考察』

 革命の幕が切って落とされたのは、1789年7月。このとき、マノン・ロラン35歳、メリクール26歳、グージュは41歳となっていた。

<参考文献>

[全体]
三成美保ほか編『歴史を読み替える ジェンダーから見た世界史』大月書店 2014
ル・ボゼック, クリスティーヌ『女性たちのフランス革命藤原翔太訳 慶應大学出版 2022
[1]ド・ラ・バール,フランソワ・プーラン『両性平等論』古茂田宏ほか訳 法政大学出版 1997
[2]石堂常世『フランス公教育論と市民育成の原理』風間書房 2013 pp95-109
[3]ウォーラーステイン, イマニュエル『近代世界システムⅢ「資本主義的世界経済」の再拡大 1730s-1840s』名古屋大学出版 2013 pp65-154
[4]池田理代子『フランス革命の女たち〈新版〉―激動の時代を生きた11人の物語』新潮社 2021
[5]『シモーヌVoL.3 特集オランプ・ドゥ・グージュ』現代書館 2020 pp60-67


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