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ドイツ観念論とフェミニズムー性から読む「近代世界史」⑫

・プロイセン、民族と国民国家、軍隊と「男らしさ」

 ここまでは、英仏を軸として性とフェミニズムの歴史について語ってきた。資本主義と三つの革命が後世に与えた影響のゆえ、19世紀初頭までの近代の主役は、それらを担ったこの両国だと言っても過言ではないからである。しかしナポレオン帝国以降、いわゆる国民国家Nation-stateの成立によって、無数の地域が覇権をめぐり台頭してくることになる。その流れを代表する者として、ドイツを挙げて考えたい。
 この地域は19世紀後半まで、プロイセンをはじめとする幾つかの王国が割拠していた。それを辛うじて纏め上げていたのが、古代ローマの後継を自称する神聖ローマ帝国であったのだが、ナポレオンの猛攻により崩壊、その後に「ドイツ連邦」という国家とも王国とも言えない半端な名称が生まれた。民族でくくろうとするなら、ドイツはオーストリアまで含む広大な地域を指すことになる。だが他にも多くの民族を有するオーストリア帝国の存在が、国家という枠組みを作るための障害となっていたのである。
 
 ドイツ人としての国民感情は、ナポレオン率いるフランス帝国との戦いの中で築かれていった。1807年から翌年にかけ、哲学者のヨハン・ゴットリープ・フィヒテは『ドイツ国民に告ぐ』と題された講演を行い、言語や文化を共有するものとしての「民族=国民Nation」を強調した。この民族は一体として魂を備えた美しい存在であり、国民として一つにまとまることで個人は真の自由を手に出来るというのである。このようなフィヒテの主張は、ナポレオンに打ち負かされた人々に「愛国心」という形で自信を取り戻させるのに役立った。このドイツへの愛国心の旗印となったのが、プロイセン王国であった。
 プロイセンでは1814年までに徴兵制が整えられ、20歳以上のすべての男性に兵役の義務が課された。その翌年にはナポレオンへの復讐が遂げられる。この後、プロイセン主導でドイツ国家の統一が図られていくのに伴い、軍隊がモデルとなる「男らしさ」がナショナリズムと絡み合いながら形成されていく。それはやがて、性を「戦う男」と「銃後の女」に二分し[9]、世界史において最も悲惨な二つの戦争へとつながるのである。

 このプロセスについては、もう少し説明が必要となる。18世紀までは、中流以上の男たちはむしろ軍人を忌み嫌っていたようだ。職場と一体であった家庭では、彼らは家内の仕事や子供の教育を担い、時には妻と感情を分かち合っていた。男性が色彩豊かで華やかな服を纏い、装飾にこだわって美を競うこともあった。そんな彼らは教養と娯楽に欠けた軍隊を遠ざけ、進んで入ろうとはしなかった。これが変わるのは、公私を分け隔てる性別役割の価値観が広まって以降である。
 以前にも少し触れたカントは、理性と威厳を男性へ、感情と美しさを女性へと割り当てることに貢献した哲学者の一人であった。彼の思想を引き継いだフィヒテは、女性が理性的に振る舞えることを認めたが、その理性で判断して妻は夫に服従するのだと主張した[10]。女性には性欲は存在せず、婚姻は愛情だけに基づくと言ったのも彼である。そしてそのような性別役割を制度化する一翼を担ったのが、徴兵制と国民国家であった。
 徴兵制のはじまりも、やはりフランス革命にある。1793年8月の「国民総動員法」をはじめとする一連の法令によって、「すべてのフランス人男性」に祖国防衛の義務が課された。革命により王が廃されたことで、国家は主権者である国民自身が守るものとされたのである。
 一方で、女性は「テントと衣服を作り、病院で働く」よう命じられた。またフランス革命のくだりで述べたように、革命期の女性活動家であるポーリヌ・レオンやクレール・ラコンブは署名により女性が武装して軍に加わる権利を要求していた。ラコンブらの動機の一つは失業者の雇用だったようだが、政府は兵士=男という原則を打ち出し、女性を軍隊から排除しつつ銃後へ位置づけたのである。その後フランス軍の侵略に遭ったプロイセンでは、「二十歳以上のすべての男性」を軍に動員する法律が出される。そしてここでも女性は、自らが産んだ子供を兵士として送り出し、戦う彼らの「威厳」を讃える銃後の役割を担うものとされていった。

・カント、ドイツ観念論、ヘーゲルと弁証法

 1818年、ベルリン大学で哲学を教えていたフィヒテの後を継いで、その後の世界史に巨大な影響を及ぼした思想家が講義を始めた。ゲオルク・ヘーゲルである。ヘーゲル哲学の中核をなす「弁証法Dialektik」は、哲学史のみならず社会主義やフェミニズムを語る上でも決して欠かせない。遠回りになるが、その思想の道筋を追ってゆきたい。
 フェヒテを経てヘーゲルにおいて成熟した精神をめぐる哲学、いわゆるドイツ観念論Deutscher Idealismusはカントの『純粋理性批判』に始まる。デカルトに連なる合理論と、ロックからヒュームに至る経験論との葛藤を克服し、理性の及ぶ範囲を明らかにすること。これが1781年に出版された本書の主題である。人に生まれつき備わる理性により世界の全てを確かめられるとする合理論は、人間と理性の力を神のように信仰している点で、カントには納得のゆくものではなかった。一方、理性の真の普遍性を否定し、感覚と経験によってしか物事は確かめられないとする経験論では、人それぞれの違いによって導かれる知識も異なってしまう。それでは、数学や科学も客観的で確実なものとは言えなくなるだろう。
 人間の精神を神として崇めるのを止め、なおかつ科学的な真理を否定しない道はあるだろうか。カントが考えついたのが、「物自体の世界(英知界)」と「現象の世界(現象界)」とを分離することであった[11]。英知界とは、物が人の関わらないところであるがままに存在している世界を指す。他方の現象界とは、この英知界の事物が視覚や聴覚など人間の感覚を通じて加工されて現れ出た世界を指している。カントによると、人々が物事を見て取るときには時間と空間についての情報を用い、質量や因果関係などの形式を当てはめてそれを整理しているという。こうして認識が成り立つとするなら、感覚により現象界に映し出された物事は不確かでも、時空や原因結果の論理がそれを形作る枠組みには普遍性があると言える。全ての人が備えもつ認識の形式についての考察、つまり数学や物理学は確実性を持ちうるのだ。人間は物それ自体については知りえない。だが認識の形式を通じて現象した世界についてなら、先天的で普遍的な知識としての科学が成立するのである。

 さらにカントは、続いて1788年に刊行した『実践理性批判』において、道徳についての議論を展開している。『純粋理性批判』は先天的な認識、客観的な知識を問うものであったのに対し、この書は「純粋理性」を前提として、人間の自由意志とその実践を考察するものである。認識においては、その有効範囲は現象界に限られている。だが道徳においては、人間は英知界から与えられる道徳法則(良心の声)に従い、道徳の主体たる人格として同じ人格である他者を尊重することが出来る。強引に要約するとこのようになるが、カントが認識と知性を現象界に、道徳の実践を英知界に割り当てたことが哲学的には重要な点である。
 なぜ道徳を別に分けて議論する必要があったのか。カントの言う認識の場としての現象界とは、人間の五感を通して感覚された世界であった。もし道徳をこの中で考えようとするなら、それは人それぞれの感じ方や、周囲の状況によって簡単に左右されるものとなってしまう。故にカントは感覚と道徳を切り離し、客観的で普遍的な法則となるよう英知界に据え置いたのである。この背景には、感性や感情を価値の低いものとみなす思考が働いている。彼の男女についての議論を思い出してほしい。カントは男性を理性的とし、女性を感情的な存在とした。合わせて考えれば、女性を男性より価値の劣った存在とする階層構造が導かれることになる。性別役割分業は単に男女を切り離すだけではない。そこでは常に、女性が男の踏み台とされているのである。
 
 カントの哲学に感化されつつ、その二元論を批判したのがフィヒテである。カントは認識される世界と道徳が実践される世界とを分けたが、フィヒテは「自我」の努力によって世界は一つにまとめられると考えた。彼は1806年に著した『浄福なる生への導き』において、人間は全てが自らの精神で包まれた世界(絶対我)に戻りたがっているのであり、そのような自我の外にあるものを次々と克服してゆくのだと主張している[12]。
 フィヒテの思想は極めて抽象的で難解だが、その傾向は後継者のヘーゲルによってさらに強められる。ヘーゲルは1807年に刊行した『精神現象学』を軸として、「自己実現Bildung」の哲学とでもいうべき思想を展開する。カントにおいては、人間の精神は生死や時空といった物そのものの真理を解き明かすことは出来ない有限なものであった。フィヒテはその限界を乗り越えようと試みたわけだが、ヘーゲルはその理論を完成させたと言ってよい。

  彼は人間が定められた限界を打ち破るには、「労働Arbeit」による命がけの闘争を生き抜かねばならない述べる。ヘーゲルによると、それは「主人」の意識と「奴隷」の意識の闘いなのだという。

主人の意識における欲望に対応するのが、奴隷の意識にとっては労働に当たるが、労働においては物の独立性がなくならない以上、奴隷は物にたいして従属する位置にあるように思える。...労働とは欲望を抑制し、物の消滅にまで突きすすまず、物の形成へとむかうのである。対象を否定するという関係は、対称の形をととのえつつその存在を保つ方向へとむかうので、というのも、労働する奴隷にとって、対象はあくまで独立の存在だからである。物を否定しつつ形をととのえる行為というこの中間項は、同時に、意識の個性と純粋な自主・自立性の発現の場でもあって、意識は労働するなかで自分の外にある持続の場へと出ていくのだ。こうして、労働する意識は、物の独立を自分自身の独立ととらえることになるのである。

ヘーゲル『精神現象学』[13]

 労働する「奴隷」は、自分(正These)と対立する物(反Antithese)に働きかけ、その形を変えようと試みる。それは困難な過程であり、物は働きかける対象であるばかりではなく、同時に自らの意識にも働きかける存在である(止揚Aufheben)。例えば一対一のスポーツを考えてみると良いかもしれない。相手(反)についてよく考え、勝利するために試行錯誤を重ねながら、自ら(正)もまた成長していく。闘いの中で壁を乗り越えると、気付いていなかった新たな自己(合Synthese)を発見する。このとき、自分は自分自身の可能性を一つ見出したのであり、意識は少し先へと進んだのである。粘り強く経験と思考を重ねる中で、勉学であれば教養、運動であれば肉体が、徐々に徐々に鍛え上げられていく。こうして「奴隷」は奴隷であることをやめて独立し、自由への道を歩んでゆくのである。
 この「弁証法」によって精神が成長していくと、認識のレベルも高められ、やがてカントの言うような現象界と英知界の二項対立も解消される。人々は倫理、宗教、芸術といったものさえ正しく認識できるようになってゆき、最終的には人間自身が神にも似た絶対の知性を獲得する。この弁証法のプロセスをヘーゲルは「歴史」と呼び、歴史とはつまり人類が理性を輝かせながら無限の自由を手に入れるまでの物語なのだと主張したのである。
 ヘーゲルは『精神現象学』の執筆を終えつつあったまさにその時に、ナポレオンがフランス軍を率いてドイツに進軍してくるのを目の当たりにした。彼はここに啓蒙と革命を体現する人間精神の高揚をみて、自らの哲学の正しさを確認したそうである。彼にとってナポレオンの登場は、苦難の歴史を辿ってきた人類が理性によって自然を克服し、現実を支配しうる存在となったことの証明であった。

 さて、西洋哲学を一つの極みに到達させたとも言えるヘーゲルだが、彼もまた当時の他の思想家と変わらず性別二元論という限界を批判しなかったばかりか、それを自身の哲学に徹底的に利用していたのである。彼は晩年の『法の哲学』において、男女は本質的に異なっていて、女性は生まれつき結婚して家庭で過ごすのに向いた存在だと述べている。ヘーゲルの理想とする国家においては、全ての者が互いに人格として尊重し合う社会が実現するというが、家族にはこれとは別の論理が用いられる。「愛の共同体」である家族においては、婚姻によって個人の自由が制限され、自立した人格として扱われることはない。以上から、家庭=私的領域を割り当てられた女性は今でいうDVを受けても仕方がないという、男女で非対称な思考が導かれる。実際、この後に形成されていくドイツの近代法は夫=男性の家長権を柱とし、家庭における暴力を認めないものとなるのである。

<参考文献>

[9]弓削尚子『はじめての西洋ジェンダー史 家族史からグローバル・ヒストリーまで』山川出版社 2021 pp204-249
[10]姫岡とし子、川越修編『ドイツ近現代ジェンダー史入門』青木書店 2009
[11]木田元『反哲学史』講談社 1995
[12]フィヒテ,ヨーハン・ゴットリープ『浄福なる生への導き』高橋亘訳 2000
[13]ヘーゲル, G.W.F.『精神現象学』長谷川宏訳 1998 p137


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