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恐怖政治とフェミニズムー性から読む「近代世界史」⑤

・対仏大同盟、恐怖政治、ギロチン

 フランスで国王が処刑されると、危機感を抱いた隣国のイギリス、オーストリア、プロイセンなどは対仏大同盟を結成して革命を抑え込もうとした。これに対し、共和国政府は全国からの徴兵によって守りを強めようとする。他国との戦争は次第にフランスの優勢に向かい、義勇兵として戦争に加わったサンキュロット(貧困層)たちの勢力が増してゆく。一方、国内の食料危機はいまだ解決をみず、2月25日にはパリで暴動が、さらに3月には地方で徴兵と食糧難に憤った農民の反乱がおこる。
 このような状況の下で、サンキュロットが支持する山岳派は権限を強め、ジロンド派との対立をますます深めてゆく。一部の女性たちはジロンド派を危機の原因とみなし、批判を浴びせ辞職を要求した。他方ジロンド派もそのような女性を「ヒステリー女」、「ロベスピエール信者」と呼んで罵った。93年5月にはレオンが女性のみが参加できる「革命共和女性協会」を作り、ラコンブも加わって170名ほどの女性を率いた。彼女らはサンキュロットの内でも最も急進的なグループ「アンラジェ」とつながり、貧民救済のために山岳派議会との対立も辞さなかった。一方でこの協会は、貧しく読み書きのできない女性も含めて教育を与え、彼女らに尊厳をもたらして革命を守ることを目指した。
 その同月、ジロンド派に傾いていたメリクールは山岳派の女性たちに襲われ、裸にされて暴力をふるわれた。これにより彼女は、精神を犯されて再起不能となる。メリクールはその後二十年以上生きたが、ついに回復することなくパリの療養所で亡くなった。

女性による愛国者集会

 93年6月、山岳派を支持するサンキュロットたちがパリの議会を取り囲み、ジロンド派議員を追放した。これにより独政権を握った山岳派は、ジロンド派を含めて意に反する者たちを弾圧するようになっていく。恐怖政治Terreurである。ジロンド派の重要人物となっていたマノンはすぐに捕縛され、監獄へと送られた。臆することなくロベスピエールへの批判を口にしたグージュも、7月に反革命の容疑で逮捕される。
 10月16日、かつての王妃マリー・アントワネットがギロチンにより処刑された。11月2日にはグージュの裁判が行われるが、抗議の余地なく有罪となり、翌日には断頭台に送られる。同月8日にはマノンの処刑が執行された。グージュ45歳、マノン39歳であった。

女性たちに私の魂を送ろう。私の無私無欲さを野心家たちに、私の哲学を迫害されている人々に、...私の快活さを老年に向かっている女たちに

グージュ『政治的遺言』

幸福と豊かさは市民を守る公正で有益な憲法からのみ生まれ得るものであり、銃剣の威圧は恐怖を植えつけるだけでパンを生み出すことはできない
...思索によって自由の尊さを知った私は、自由の友として、革命を共起して迎えた。なぜなら革命とは、私の憎悪する専制が終わるときであり、不幸な人々の運命に胸を突かれた私が嘆いていた権力の濫用が根絶されるときであると、確信していたからだ

マノン・ロラン

 マノンの死を知った夫ロラン、そしてマノンの恋人であったジロンド派議員ビュゾーは、彼女の後を追うようにして自殺する。恐怖政治に反対したコンドルセは逃亡生活を送るが、翌年には捕縛されて獄死した。逃亡中に著され遺作となった『人間精神進歩の素描』には、男女の不平等の原因は「力の濫用以外に原因はなかった」と書かれている。

・サンキュロット、ブルジョワ、テルミドール反動

 国家による極刑という圧倒的な暴力を前にしても、女たちはなお闘争をつづけた。対外戦争と地方の反乱、内憂外患の中で小麦不足とインフレは収まることを知らず、彼女らは食物を求めて声を上げ続けた。93年9月には穀物価格を抑える法が出されるが、その勢いに山岳派の男性たちは怖気づいた。彼らは女性たちを「理性の欠けた軽薄な女」と罵り、レオンとラコンブの女性協会は攻撃された。
 それでもラコンブは堂々と女の権利を語り続けた。10月8日、彼女はロベスピエールを名指しで批判し、男性の独占する議会に向けてこう述べた。

無数の非道な男たちによって私たち女は裏切られ、暗殺されてきた。私たちの権利は人民の権利である。私たちが抑圧されたとしても、私たちは抗う術を知っている

ラコンブ

 10月30日、山岳派議員のアマ―ルは演説を行い、政治参加する女性は自らの本質的な魅力である穏やかさや慎ましさを損なうと述べる。そして女性の政治結社が禁止され、続いて女性による団体は解散させられ発言の場が閉ざされた。自然に反するとして女性の男装は禁じられ、武器を持ち戦闘に参加することも許されなくなる。さらに、大学、工場、芸術協会など、様々な領域から次々と女性が締め出されていった。
 
 1793年夏までの革命前期は、女性が一部で軍隊へ入隊することが認められたり、売春が寛大に扱われたりと、女性の社会活動が広まった時期であった。しかしそれ以降、民衆運動の過激化を警戒した政府により、抗議活動の弾圧と女性の公共空間からの排除が進んでいく。この背景には、貴族や協会の権力が崩れた一方で、ブルジョワ(富裕市民)とサンキュロットのような貧しい人々の対立が強まったことにある。次第に財産を持つブルジョワたちに擦り寄るようになっていた政府は、彼らの性別分業的な道徳と男女観を政策に取り入れた。公共空間のモラルを正すという名目で貧しい売春婦は排除される一方、富裕層の売春は黙認された。貧しい人々の差し迫った要求に対処する代わりに、道徳を強調して男女を分断することで治安の維持を図ったのである。
 生き延びるためにパンを求める民衆をよそ目に、物価高騰で儲けるブルジョワたち。彼らを嫌悪していた「アンラジェ」は下層民の側に立って食料価格を下げるよう要求し続けたが、それ故にやがてロベスピエール達から敵視されるようになる。アンラジェの指導者であり、ラコンブらの女性協会の支持者でもあったジャック・ルーは捕らえられ、獄中で喉を突いて自殺した。続いてレオン、ラコンブも投獄された。

 翌1794年に入っても、依然として多くの市民は飢えや失業に苦しんでいた。過激派とみなされた人々が牢獄に送られるなか、山岳派政府による統制への不満も限界に達しようとしていた。94年7月、議会はロベスピエールを始めとした山岳派の主要議員を捕縛、弁明も聞かずに処刑していった。テルミドール反動と呼ばれるこの政変により統制は撤廃され、ブルジョワたちが求めていた経済活動の自由化が進んだ。彼らの投機と買占めにより、ますます物価は高騰、女性やサンキュロットたちは憤慨した。95年4月、新しく成立した政府へ民衆が反乱を起こして議会へ突入、女たちは先頭に立って食料と延期されていた憲法の施行を要求した。続く5月の「プレリアル蜂起」でも女性たちは主導権を握り、周囲の男女を引き入れて行進した。
 パンと正義を求めて女性たちは闘い続けたが、政府は一切聞き入れずに暴力で応じた。95年には女性だけで議会を傍聴すること、政治集会へ参加することが禁止され、「家庭復帰令」により路上でデモを行うことも許されなくなった。同じく苦境にあった下層の男たちでさえ、女性の本分は家庭にあるとして排除に加担していった。貧民出身の政治家ショーメットが言い放った言葉は、そのような当時の女性嫌悪を代表している。「おとこおんなで恥知らずなオランプ・ドゥ・グージュとかいう女は、...家事を放棄し、政治を論じようとして罪を犯した」。

<参考文献>

[全体]
セレブリャコワ, ガリーナ『フランス革命期の女性たち 上』西本昭治訳 岩波書店 1973
マクフィー, ピーター『フランス革命史 自由か死か』永見瑞木、安藤裕介訳 2022 白水社


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