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独立革命とフェミニズムー性から読む「近代世界史」②

・啓蒙主義、ルソー、サロンの女性たち

 西欧の18世紀は「啓蒙の世紀Enlightenment」と呼ばれる。書籍、新聞・雑誌が無数に刊行されたこの時代、読み書きのできる上流階級を中心として、人々は女性が主宰するサロンに集まって議論を交わした。議論はやがて世論となって社会に広まり、のちの革命への道を整えた。例えばイギリスの女性作家エリザベス・モンタギューElizabeth Montaguは、1750年に「ブルー・ストッキングス」という名のサロンを開き、男女が文学や芸術について対等に語り合う場を提供した。物書きの女性たちを支援するという理念で運営されたこのサロンは、150年後の日本に伝わって「青鞜社」結成の後押しをした。

 一方この時代に広く読まれたのが、哲学者ジャン=ジャック・ルソーの『エミール または教育について』である。ルソーは1755年に出版した『人間不平等起源論』において、私有財産によって支配、貧困などの不平等が生まれ、その不平等を保たせるために国家が成立すると主張する。さらに『社会契約論』では、人々の公共心(一般意思)によって社会の不平等を是正し、個人の自由を守るべきだと述べた。ルソーは、イギリスで既に成立していた政党による議会政治さえも否定し、代表にゆだねない直接民主主義を訴える。全ての人が他の誰にも決断を委ねることなく、自らの意志にのみ従うことを是としたのである。

イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人は奴隷となり、無に帰してしまう

ルソー『社会契約論』[4]

 社会の不正を強く批判し、人間の自由を称揚したルソーは後のフランス革命の理論的支柱となった。1762年に出版された『エミール』もまた、子どもの教育について画期的な見方を提示し、後世に多大な影響をもたらした書である。ただしルソーは「服従は女性にとって自然の状態」とし、女性が自我を抑える教育を推奨した[5]。このような彼の思想は次の一文に尽くされている。

男性に喜ばれること、役に立つこと、男性に自分を愛させ尊敬させること、幼いときは養育をし、成人したら世話を焼き、男性の相談相手となり、男性をなぐさめ、男性の生活を心地よくたのしいものにすること、これが女性のあらゆる時期の義務なのであり、子供の時から女性に教えなければならないことなのである

ルソー『エミール』

 ルソーにとって、性別によって異なる役割をこなすことは「自然」にもとづくことであり、女性には男性とは別に「母性」を重視した教育をしなければならないとされる。彼が「女性の義務」とした「母性」とは、自らを犠牲にして子供のために尽くすというものである。当時ほどんどの貴族の妻は雇った乳母に子供の保育を任せていたが、ルソーはこれを強く批判し、自ら母乳育児を行うべきだとした。一方で資本主義の発展とともに富を蓄えつつあった市民たちは、貴族への対抗意識も相まってルソーの女性観を進んで身につけてゆく。

 ドイツの哲学者イマヌエル・カントは『エミール』に感銘を受けたとされる。彼が1764年に出版した『美と崇高に関する観察』において、男性は崇高で理性的であり、女性は美的で感性的であると述べている。女性は男性に従う存在だが、美や感性では男性を凌ぐ、というのがカントの主張である。
 ルソーやカントのように男女を対比させる議論は、男性=理性=威厳=公的生活/女性=感情=美=私的生活という性別役割を規範として確立させることとなる。「つつましく愛情深い女性」を美しいとして持ち上げることが、世論として人々の間に広まっていったのである。

・アメリカ独立革命、黒人奴隷、女子教育

 1763年、フランスとの戦争に勝利してアメリカ植民地を得たイギリスは、国王の宣言により入植者がさらに西へと移住することを禁じた。先住民との戦いを避けるため、既に成立していた13植民地の西側は先住民に割り当てようとしたものだった。これに対し土地を得て利益を上げようとしていた人々は不満を持った。また65年の印紙法を皮切りに、新聞、茶などイギリス本国は植民地への課税を強めたため、本国と植民地の対立は次第に深まっていった。
 課税への抗議として1773年にボストン茶会事件Boston Tea Partyが起こると、植民地側でイギリス製品のボイコット運動がはじまった。課税に反対する女性たちは「自由の娘たち」を結成、進んでボイコットに応じ、アメリカの独立を支持する。輸入品を使わないよう、植民地の妻たちは家庭での倹約を求められた。75年、アメリカ側でついに本国軍と植民地人が武力衝突、独立戦争が勃発した。

 1776年、フィラデルフィアで独立宣言Declaration of Independenceが採択された。アメリカ合衆国としてイギリスからの独立を掲げながら、生命・財産および幸福追求の権利、人民主権などが述べられ、ロック哲学の影響が強く表れている。イギリスとの戦争は独立宣言後も苦戦を強いられ、フランス人のラ・ファイエットなど海外からの支援、そして女性たちの協力なくしては継続できないものであった。
 長引く戦争で資金が不足する中、エスター・ド・ベルト・リードEsther de Berdt Reedは1780年に『アメリカ女性の心情』を発行して女性たちに愛国派(独立派)の大義を訴える。さらにリードは愛国派の女性たちと「フィラデルフィア婦人協会」を結成し、大陸軍のために資金を集め、その後まもなくして死んだ。男装して入隊し、八カ月のあいだ従軍して戦ったデボラ・サムソンDeborah Sampsonという女性もいた。後に第二代大統領となるジョン・アダムズの妻アビゲイルAbigail Adamsは、革命に力を尽くした「女性たちを忘れないよう」と言ったとされる。

もし憲法の欠点が、あるいは世論や風習が、私たちに男性と同様の道を通る栄光の行進を禁じなかったならば、私たちは少なくとも平等であったろうし、時には公益への愛において男性に勝ったであろう。私は女性が行った偉大なことや立派なことすべてを誇りに思う

リード『アメリカ女性の心情』[6]

 名誉革命にいたるイギリスの革命は裕福な地主層(ジェントリ)が主導したのに対し、領主や貴族が存在しないアメリカの独立革命は小農やトマス・ジェファソンなどの弁護士も主体となった。独立に反対する忠誠派は本国イギリスやカナダに亡命し、その財産は没収された。これにより植民地時代の富裕層は減り、中流階級が権力を得た。独立宣言は「すべての人は平等に創られall men are created equal」と謳ったが、「人men」とは白人男性のことであり、そこに女性や奴隷は含まれていなかった。
 独立時、200万の白人に対し黒人奴隷は50万人近く存在した。独立宣言を起草し、後の大統領となるジェファソンは当初、宣言の中で奴隷制反対を示そうとしたが、他の「建国の父たち」に妨げられ叶わなかった。1780年、「すべての人間は自由に生まれ、平等である」と書かれたマサチューセッツ州憲法が成立する。翌年、エリザベスという名の奴隷が裁判を起こし、憲法を根拠に自由を勝ち取った。このエリザベス・フリーマンElizabethFreemanという女性は、マサチューセッツで奴隷制に異議を唱えた最初の黒人であった[7]。アメリカですべての奴隷が解放されるまでには、この後百年近くを要することになる。
 
 1783年に勝利したこの戦争を経ても、女性たちの劣位が改められることはなかった。女性は「共和国の母」として子供を国民へと育てる重要な存在とみなされ、女子教育や女学校の設立が進んだが、それは女性の役割を「母」のみに限り家の中に閉じ込めることを意味した。1790年、女性作家のジュディス・サージェント・マレーJudith Sargent Murrayは『両性の平等について』という論文を出し、同等の教育を与えれば女性も男性に劣らない成果を上げると主張した。後述するメアリ・ウルストンクラフトをはじめとして、その後も女性たちが教育を求めて闘わざるを得ない状況が続くのである。

<参考文献>

[全体]
木下康彦ほか編『詳説世界史研究』山川出版社 2008
三成美保ほか編『歴史を読み替える ジェンダーから見た世界史』大月書店 2014
マッケン, ハンナほか『フェミニズム大図鑑』最所篤子、福井久美子訳 三省堂 2020
[4]本秀紀編『憲法講義 第2版』日本評論社 2018 p66
[5] 弓削尚子『はじめての西洋ジェンダー史 家族史からグローバル・ヒストリーまで』山川出版社 2021
[6] デュボイス, エレン・キャロル、デュメニル, リン『女性の目からみたアメリカ史』石井紀子ほか訳 明石書店 2009 p140
[7]岩本裕子『物語 アメリカ黒人女性史(1619‐2013)―絶望から希望へ』明石書店 2013


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