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功利主義とフェミニズムー性から読む「近代世界史」⑨

 本章に入ってからというもの、未だに男性の名しか挙げられていないのだが、もうしばらく耐えて頂きたい。女性たちが華々しく活躍したフランス革命期と違い、グージュやウルストンクラフトが非業の死を遂げた後、ナポレオン法典により女性の従属が決定付けられた19世紀初頭はフェミニズムが停滞を余儀なくされた時期なのである。それが再び動き出すまでには、21世紀の人々にはよく知られる三つの思想潮流が準備されなければならなかった。
 一つは、前述したオーウェンと労働運動labour movement、もう一つは、これから見てゆくベンサムによる功利主義utilitarianism、、そして三つめが社会主義Socialism(とくにマルクス主義)である。これらのまったく異なるはずの三者は、不思議にも次第に接点を持ちはじめ、やがて20世紀に続くフェミニズムへの道を整えることとなる。無論、そこに関わった女性たちの尽力も忘れてはならない。順を追って述べてゆきたい。

・ベンサム、功利主義、ソドミー法

 再び、歴史を遡らなくてはならない。ナポレオンとフランス帝国の出現に人々が動揺していたころ、ロンドンで一人の老人が高名な学者たちの間で人気を集めていた。60代にさしかかろうとしていたこの大思想家、ジェレミー・ベンサムは功利主義を確立して後の哲学に多大な影響を与えたとされる。富裕で保守的な家庭に出自をもつ彼は、その「功利」と名の付いた思想と相まって、頑迷で成金的なイメージを抱かれるかもしれない。一方、彼は別の面から見れば当時もっともラディカルと言ってもよい主張を展開してもいるのである[3]。この極めて特異な哲学者については、今一度見直してみる必要がある。

 ベンサムは幼少期から才気にあふれていたらしく、早くも12歳からオクスフォード大学で学び始めている。法律家になってほしいという父の希望の下、当時の法学の権威であったブラックストンの講義を聞くが、ベンサムは魅力を感じられなかったそうである。ブラックストンは、伝統的なイギリスの慣習に倣い、女性や同性愛の抑圧を当然のものとみなしていた。ベンサムは後に性について驚くほど革新的な見方を提示することになるのだが、それはブラックストンに体現される古くからの偏見に嫌気がさしていたかもしれない。
 ベンサムが20代のころにはアメリカで独立戦争が起こっているが、彼は「独立宣言」を嘲笑するような文章を書いていたとされる。またその十年後にフランス革命が勃発した際には、彼ははっきりと「人権宣言」を批判する論文を書いている。ベンサムは以下のように述べる。

権利はすべて、自由を犠牲にして作られる...法律によって、すべての権利は創造され、あるいは確立されるのである。対応する責務のない権利は存在しない

ベンサム『無政府主義的誤謬』

彼の意図を読み解くのは難しいが、人間が生まれながらにして持つ権利(自然権)を過度に信じてしまっている、というのがその要点であるらしい。この辺りだけ見ると、ベンサムが保守的な思想家という評価をされるのも仕方が無いように思える。
 
 革命勃発の1789年、ベンサムは主著となる『道徳と立法の諸原理』を出している。この本において、「功利主義」という彼の哲学の中核を為す主張が展開される。ベンサムはまず、人の幸福の度合いは快楽(嬉しい、心地よいなど)と苦痛というシンプルな指標によって測ることが出来るとする。快楽の方が大きい状態をプラスとし、その逆に苦痛が上回る状態をマイナスとすれば、個人においてプラスの値が高ければ高いほど、そのような個人が多ければ多いほど、社会にとって善い状況であると見なすことが可能になる。ここから、人々の快楽の合計した値が最大になるよう法律を作っていくのが善であるという考えが導かれる。これがいわゆる「最大多数の最大幸福」の意味するところである。
 さて、ベンサムは当時のイギリスにおいて、土地財産を持つ者が政治を意のままにしていることを不合理と感じていた。政治が特定の階層の利害と結びついていては、彼の目指す「最大多数の幸福」は決して実現されることはない。ベンサムは貧富や性別に関わらず、全ての人が、さらには犬や豚などの動物までもが配慮に値する存在だと考える。善の基準を快楽と苦痛においている以上、快苦を感じることができる者はみな平等に数えられなければならないからである。貴族や資本家、白人や男性の方が価値があり、労働者・黒人・女性・動物の価値は低い、そのような考えをベンサムは偏見として跳ね除ける。

既にフランス人は、肌の黒さは人間を虐待してよい理由にはならないと悟った。いつか、脚の数や肌の毛深さもまた、感覚ある存在をぞんざいに扱ってよい理由にはならないと人々が気付く日が来るかもしれない。...成熟した馬や犬は、生後1日、1週間、いや1カ月経った幼児と比べても、はるかに理性的で話しかけやすい動物である。しかし理性を欠いていたとしてもそれが何だというのか。問題は、その者たちが思考できるか、会話できるかではなく、苦しみを感じられるかどうかである

ベンサム『道徳と立法の諸原理』

 以上のような立場から、彼は女性が従属する現制度のあり方を強く批判し、男女の平等を訴えることとなる。今の社会で女性が劣位に置かれているのは、男性が肉体的な強さゆえに権力を独占し、支配のために男性中心の法律を一方的に作り上げたからに過ぎない。女性を貶める「女らしさ」は偏見の歴史が形作ったもので、節度を説くのは女性を男に従わせるためである。女性は黒人奴隷と同じく力の濫用によって抑圧されているのであり、だとすればそのような不正は改められる必要がある。
 ベンサムは、男性が立場として強い社会にあって両性の平等を真に達成するためには、女性を積極的に優遇するよう環境を整えてゆくべきだと主張する。具体的には教育をもって偏見を正し、法制度をもって選挙権や結婚離婚の自由を与えるなど、女性に抑圧的な社会の改革が要求される。『道徳と立法の諸原理』という書の題は、彼が人々の意識を変えるだけでなく、立法など社会制度にまで踏み込むのを求めていたことを示している。
 さらに加えて、彼の哲学は同性愛についてまで及んでいる。当時のキリスト教社会では、同性愛の行為は著しい不道徳とされ、イギリスでは1861年まで死刑が科されていたほどであった。俗に言うソドミー法Sodomy Lawである。同性愛は「不自然」であり、それ故に行為に至れば犯罪として扱われた。ベンサムはこれもまた偏見であるとして批判する。もし同性愛が不自然であるというのなら、教会や修道士の禁欲生活は不自然にはならないのだろうか。論理的に考えれば、女性を従属させることと同じく、同性愛を犯罪とすることもまた虚構に過ぎないことがわかる。
 同性愛の行為は当事者に快楽を与えこそすれ、苦痛をもたらすようなものでは決してない。当事者の幸福につながるものであり、社会的にも無害のはずであるから、厳罰に処すことは明らかに不当である。英語圏で同性愛をはじめて擁護したと言われるベンサムの論文は、当時の状況を踏まえてか生前に発表されることはなかった。とはいえ、これにより彼の哲学がいかに革命的であったかが分かるはずだ。

・フランシス・ライト、アナ・ウィラー、功利主義フェミニズム

 ベンサム晩年の頃の1821年、齢七十を超えたこの老紳士は『アメリカの社会についての考察』という書に夢中になっていた。本の著者は「匿名の女性」となっていたが、彼はこの女性と是非話したいと思い、自身の邸宅に招待する手紙を送った[4]。彼女の名はフランシス・ライトFrances Wright。後にオーウェンとも関わり、数カ国を跨いで女性や黒人奴隷の解放のために奔走することになる女性である。
 ウルストンクラフトが北欧を旅していた頃の1795年、ライトはスコットランドの中流階級の家に生まれた。母は彼女を産んだ数年後に死去し、それから間もなく父も亡くなってしまう。幼いライトとその兄弟は、祖父母や叔父によって育てられることとなった。この時代、女性は学問に触れる機会を著しく制限されていたのだが、大学の哲学教授をしていた大叔父の影響もあり、ライトは図書館に通って思うままに本を読みふけった。子供のときの文学や哲学が身近に感じられる環境が、言葉で現実に挑もうとする情熱を彼女の内に形作ったのだろう。20代に差しかかるころ、ライトは早くもいくつかの作品を書き上げていた。その内の一つ、支配に抗う民族を描いた『オルトーフ』という演劇は後にニューヨークの劇場で上演されて絶賛されるまでに至っている。

 ライト22歳の時、彼女は妹ともにアメリカへ旅に出る。この新しい国の自由と共和主義の行方を身をもって感じたいと考えたそうである。ライトは3年ほど滞在した後にイギリスへ帰国、そして1821年に体験をまとめた『アメリカ社会についての考察』を出版した。この書の中で彼女は、アメリカの女性たちが男性と同じく自由に人付き合いを楽しんでいると羨望の目を向ける[5]。一方、女子教育については英仏と変わらず男子に遅れることを良しとするものであり、他にも女性だけ財産権など法律上の権利を欠いているなど、男と女とで自由に格差があることを見抜いてもいる。メアリー・アステルやウルストンクラフトら数多くの先駆者たちが長年取り組んできたこの問題は、ライトのような19世紀の女性に対しても未だ分厚い壁として立ちはだかっていた。

 さて、ライトはベンサムに招かれたことでこの哲学者の邸宅に滞在することになるが、そこは当時、様々な知識人や思想家の通うサークルのような場となっていた。最も有名な訪問者は、後に功利主義を発展させ、経済学や女性解放論においても多大な貢献を残すことになるJ.Sミルだろう。ただし、彼がフェミニズム運動に加わるのはこの時点から半世紀ほどたってからである。その顕著な活動の以前に、英国フェミニズムにおいて無視できない貢献をした二人の人物も、ライトともにベンサム邸を訪れていたのである。アナ・ウィラーAnna Wheelerウィリアム・トンプソンWilliam Thompsonである。
 哲学者であったトンプソンは、ベンサムの功利主義と女性解放論を実行に移したいと感じていた。彼はオーウェンとも交流を持ち、1824年に『富の分配に関する研究』を出版、人々が自発的に労働ながら互いに助け合う平等な社会を形作っていくと展望した。この本の中で、トンプソンは女性が自由を得るために家事や育児を社会化する提案も行っている。
 一方、アイルランド生まれの作家であったウィラーもまた、労働についての状況と、女性をめぐる状況とをともに改善してゆくべきだと考えていた。彼女はフーリエやサン=シモンの思想をイギリスに伝える傍ら、女性の労働が男に劣るとされている限り、両性の平等は決して実現しないとの思いを強めていく。男女平等の教育と女性の参政権を求め、1825年にはトンプソンと共著で『人類の半数を占める女性の訴え』を世に問うた。
 この著は、女性のおかれた状態を政治や経済の面からくまなく分析し、男性優位の社会と家庭によって「奴隷」に貶められているのだと強く批判する。当時の制度では、女性は自分の求めを訴えようとしても夫や父に代弁してもらう他はない。それを改めるには、女性に参政権を認め、立法に加わらせることが必要となる。また、競争の原理を軸とする仕組みの中では、女性は身体的な不利と出産・育児を担うことへの期待から、男性と同じ様に幸福になるのは難しい。男女が真に平等となるためには、オーウェンの理想とするような協働社会を作り上げなくてはならない。以上のように、『女性の訴え』はベンサムやオーウェン、さらにはフーリエが主張したような男女共同をも取り入れながら、女性解放論を次の段階に進めたと見なせる内容となっている[7]。

 さて、ライトはベンサム邸をたずねた後、ラファイエットと知遇を得てパリを訪れ、さらに彼に連れられて再びアメリカへ渡った。そこでラファイエットは彼女を第三代大統領トマス=ジェファソンに紹介した。二つの大陸における革命の立役者たちと知り合ったことは、ライトの政治的な情熱をより膨らませたに違いない。そしてこの二度目のアメリカ滞在において、彼女はオーウェンの「ニューハーモニー」を訪ねたのである。
 1825年からアメリカへ来ていたオーウェンは、合衆国議会で演説の機会を得る。彼はそこで、私有財産を土台とする資本主義が労働者の苦境を生み出していると述べ、人々が財産を共有する協働社会の建設を宣言した。アメリカで資本主義に対してここまで根本的な批判を突きつけたのは、オーウェンが初めてと言えるかもしれない。しかも、国の立法府たる議会においてである。
 彼は言葉の通りにニューハーモニー建設を開始し、自身が生み出した共同体の中で平等の理念を貫徹させようとした。そこにやって来たのがライトであった。彼女はオーウェンの夢に共感し、帰国せずにアメリカに滞在し続けることを決めた。オーウェンは27年に一旦イギリスへ戻ってしまうのだが、ライトはその後も共同体の運営を担った。協働社会の理念を伝えるために「ニューハーモニー・ガゼット」を編集し、一方で黒人奴隷の解放を目指すコミュニティを開設した。
 ライトはさらに、奴隷と女性の解放を訴えるための講演を始める。当時女性が演説するのはタブーとされていたが、ライトは臆することなく、既婚女性の財産権、離婚や産児制限の導入などの主張を繰り広げていった。ウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』から30年と少し、ここにおいてようやく、再びフェミニズムの歴史が動き出したのである。

<参考文献>

[3] 深貝保則、戒能通弘編『ジェレミー・ベンサムの挑戦』ナカニシヤ出版 2015
[4] 土方直史「『世界の立法者』ジェレミー・ベンサムとフランシス・ライトの出会い―1820年代イギリス・フェミニズムの背景をさぐる―」『経済学論叢(中央大学)』第60巻・第 2号 2019 pp135-154
[5] ―「フランシス・ライトの生い立ちと『アメリカ社会とマナーについての考察』―イギリス・フェミニズム誕生の背景をさぐる―」『中央大学経済研究所年報』第50号 2018 pp483-511
[6] トンプソン, ウィリアム『富の分配の諸原理』鎌田武治訳 京都大学学術出版 2012
[7] ゴドウィン, ウィリアム『メアリ・ウルストンクラーフトの思い出―女性解放思想の先駆者』白井厚、白井堯子訳 未来社 1970


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