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参加サークル:RetroLight

文学イベント東京 参加サークル 「RetroLight」の紹介ページです。


■ 「寄せ植え」

中編集(小説) 
サイズ:A5 頁数:130
2つの中編と1つの短編を収録。
1.「ラブソング」……複数の名前を持つ青年は、ある少女のクローンをターゲットにした依頼を受ける。クリスマスまで待ってと言った彼女と、青年の奇妙な数日の話。
2.「薄紫の揺籃」……安楽死を認めるラベンダーの街で、審査官の「私」は遠い街からやってきた殺人犯の審査の担当を命ぜられる。
3.「旅人」……かつて戦場が隣り合わせにあった街に、大きな薬籠を背負った青年が滞在した日のこと


1.「ラブソング」

 かちかちかち、と神経質な時計の針の音。そろそろかな。

 意識もぼんやりとしていて、事務所のソファで丸まって眠っていると、ブルースが入ってくるなりため息をついた。僕はやつの小言が面倒だったから、背もたれに顔を押し付ける。わざとらしく背中を上下させて呼吸を繰り返す。でも、ブルースは僕が眠っていようと起きていようと関係なく文句をこぼす。

「頼むから、シャワーを浴びてから眠ってくれないかとなんども言っているんだが」

ブルースは潔癖性なのだろうか、いつもそんなことを言う。僕は眠たそうに顔を上げた。

 古めかしい貴族の書斎でもイメージしているのか、この部屋は茶色ばかりで、何もかもに秩序が敷かれている。本の並び方は作者の名前順、それから題名順、本の高さもきっちり並んでいる。カーテンはきっちり折り目がつき、デスクの新聞は綺麗に四つにたたまなければならない。今日も灰色の空が続いているから、窓は十センチだけ開けることになっている。そんなきっちりとした彼のソファに、僕は似つかわしくないのだ。

「けれど、ここがよく眠れるんだよ」

 櫛も通らない髪に指を通そうとして、僕は手を止める。きっとソファは僕になんか座ってほしくなんかないだろうけれど、彼の仕事場は落ち着く。きっと、人間味というものがないから。無機質なにおいで、僕はぐっすり眠ることができる。

「それは光栄だ。だが、君、そんな泥まみれはやめておくれよ。なぁ、いったいどういうことだ? なんだってそんなボロの服を着ている? 俺が買ってやった服は?」

「あるよ。着ていないだけで」

 穴は空いて裾がほつれているジーンズ、袖口が破れているぺらぺらのコート。それが僕のいつもの格好。ブルースは大通りから少し外れた、小洒落た個人店で買ったというシャツとベストを着ている。

 彼が僕にくれた紺色のウールのコートも、そういうところで買ったやつだ。十二月の寒空の下で僕がこの事務所を出入りすることが、見るに絶えなかったのだという。

「服は着るためにあるんだ、ベンジャミン!」

 ブルースはちょっと尖った声で言った。ここのソファの寝心地は悪くないのだけど、ブルースの金切り声はちっとも子守唄にはなりゃしない。彼は茶色のふちのメガネのはしっこをつまんで持ち上げる。

「知っているよ」

「ならばせめてシャワー室にでも行ってくれ。タオルなら置いてあるから」

「ありがとう」

 あたたかい風呂はありがたい。僕はのっそりと体を起こした。

「それが終わったら配達に。いいか、君は俺の大事なクライアントに会うんだ。それなりに身綺麗にはしておいてくれ。そのボロのコートは脱いでいけよ! 俺のを貸してやるから」

「うん」

 二階のシャワー室に行こうとすると、背後でため息が聞こえた。

 彼は弁護士だ。そこそこ名の知れた、有能な人間らしい。人の面倒ごとを解決するためのお仕事。

 彼は僕のことを、仕事をろくに持っていない穀潰しか何かだと思っている。出会ったのもここ三ヶ月のことで、互いのことを詳しくはあんまり知らない。彼は僕のことを、かわいそうなやつだと、適当な小間使いに出してはなんらかの報酬を提供する。今日の報酬はソファという上質な寝床とシャワー室。それが提供されるのならば、このくらいの使い走りはお安いのだけど、彼は一つだけ大きな誤解をしている。僕は正してやるつもりは決してないけど、僕は穀潰しではない。僕には僕の、仕事を持っている。

 僕の本業は、殺し屋。人の命を扱う、単純な仕事だ。

 仕事が来ないときは、僕はブルースの事務所に押し掛けたり、バーに行ったり、図書館に行ったり、ごく一般的な市民として過ごしている。そう、この灰色の街が望んでいる、『健全な精神と健全な身体は健全な国家のため』の、構成員の一人。

 シャワーを浴びて、彼の仕事部屋に戻ると、ソファの前のローテーブルに、ファイルと綺麗に畳んだトレンチコートが置いてあった。

 ブルースは自分のデスクに書類とノートパソコンを広げて、もう僕のことなんか見えていないようだった。ファイルの上にはメモが添えてあり、そこには彼のクライアントの住所が記されている。僕は黙ってトレンチコートを羽織り、ファイルを片手に事務所を出た。

 息を吐き出すと、白い煙がふわりと舞った。ファイルを脇に挟んで、ポケットに両の手を突っ込んで通りを歩き出す。

 ここは、灰色の街だ。すれ違う人たちもコートの襟を立てて、早足で通り過ぎていく。事務所の隣を通るメインストリートを進み、そこから奥まったところにある住宅街の中に入ると、緑色の屋根の家を見つけた。名前を照らし合わせてからドアベルを鳴らすと、二つ数えたくらいで女の人が顔を覗かせた。プラチナブロンドの髪、見知らぬ男がやってきたことに怪訝そうな顔。それでもって、覚えにくそうな、どこにでもいそうな顔。でもきっと、シャワーを浴びてブルースのトレンチコートを羽織っていることで、少しは彼女の不信感は和らげることはできたのだろうか。

「ブルースの事務所の使いです。ファイルを渡すように言われました」

 僕はファイルを差し出すと、彼女は思い出したかのようにファイルをひったくった。ページをぱらぱらめくってから、何を書いてあるのか知らないけれど、その内容に彼女は心底ほっとしたようだ。「ありがとう。先生によろしく伝えてください」

「はい」

 何をよろしく言えばいいんだろう。頷くだけ頷いて、僕は事務所に戻った。

 メインストリートにまた出ると、道端にパトカーが停まっていた。通行人たちはちらちらと気にした様子を見せていて、降りた警官が野次馬たちを鬱陶しそうに追い払う。パトカーの助手席からも人が出てきて、路地に歩いていく。それを尻目に、僕はブルースの事務所にノックをしないで入った。

「早いな」

「よろしくって言ってたよ」

 僕は言われた通りに、彼に伝えた。

「そうか」

 ブルースは淡々と答えた。窓を見やると、暗くて厚ぼったい雲が積もっている。そろそろこの街にも雪が降るころなのだろう。

「昼食は食べていくか?」

「うん」

 ブルースは顔を上げずに聞いて、僕は返事をした。デリで二人分のサンドウィッチとドーナツを買ってくるのは、僕の役割だ。僕がいないとき、彼は昼食をとっているのだろうか。昼時になってようやく伸びをしてみせるまで、彼は根っこが生えてしまったみたいに椅子にくっついている。僕はコートを脱いで、ソファに座った。昼食まで時間があるから、暇つぶしに新聞を読むことにした。一面には政府が不祥事で個人情報を民間企業に流してしまった、という内容。僕にはよくわからない内容だが、とにかく「一大事」のようだ。

 ソファの上に膝を折りたたんで座り、新聞をばさばさと折って三面記事をめくると、隅っこのほうに市議会議員の殺人事件について記述があった。もう何日か経っているけど、犯人は議員になんらかの恨みを抱いていた人物として捜査を拡大しているという、ありきたりなことしか書いていなかった。半分正解、半分不正解。

 その隣には、サプリメントの広告。カラフルなカプセルには、いろいろな効果がある。わざわざサンドイッチを食べなくても済むもの、顔からシミとか皺とかを出ないようにするもの。きっと、僕のいないときのブルースは、こういったものを飲んでいるのかも。安価で無味の、栄養素の塊。灰色の街が作り出した、技術の結晶。とっても効率的と謳っている。紙をめくる。今週のポッドに入った人たちのリスト。名前の羅列は、この国に認められた人々であることの証拠。僕はその名前を眺める。

 記事を読み終わらないくらいで、呼び鈴が鳴った。ブルースが視線を僕に向けたので、新聞を置いて扉を開けに行った。

「お話をうかがいたいのですが」

 扉の隙間からねじ込まれた警察手帳。さっき、メインストリートに停めていたパトカーの助手席から出てきた警官だ。小柄な女の人で、気が強そうに振舞いたいのか、僕が扉を開くと容赦なく踏み込んだ。今から突入しようとしているくらいの勢いだ。僕は扉にかけていた手を離して、一歩退いた。

「弁護士は奥に」

「えぇ、どうも。あなたは?」

「小間使い」

 彼女は僕をしげしげと眺めると、案内されるのも待たずに、足音を立てて奥の仕事部屋に向かう。開け放たれたままの玄関口をそっと閉めて、僕は後に続いた。

「メリアムと言います。突然申し訳ありません。現在、ある殺人事件について調査をしておりまして」

 ブルースのデスクの前に刑事さんは直立し、ブルースの方もきっちりとネクタイの位置を正して、彼女と握手を交わした。言っているわりに、彼女は申し訳なさそうにしているようには見えない。むしろ、彼女が持っている権力の前では、気難し屋のブルースも協力的になるべきであると言いたげだ。ブルースは眼鏡を押し上げる。いつも不機嫌そうな顔を、今はクライアント向けの、ちょっと口角をあげた笑みを浮かべたものにしている。

「聞き込みでしょうか」

「はい。先日殺害されたジェンキンス議員のことはご存知でしょうか?」

 さっき新聞で読んだ、殺された議員のことだ。

「えぇ、まぁ。テレビで見ました。痛ましい事件です」

「殺害されたのは、ここの隣のメインストリートからすぐの場所です。事件発生時のことは憶えていらっしゃいますか?」

「先週の金曜日でしたよね?」

「はい」

「……そうですね、その日は変わらずこの事務所にいました。後ろにいる彼もです。私は二十時ごろに、この事務所の上にある自室に入りました。事件は確か深夜に起こったと新聞で見ましたが、何か騒ぎを聞いて起きた、ということはなかったと思います」

「なるほど。ジェンキンス氏とあなたは個人的な接触はありましたか? その際に、何か恨みを買われているということは?」

「彼が選挙活動をしている際に握手を交わした程度です。彼のこと自体はよく知りません。あとは新聞やテレビで見聞きした程度で」

「あなたの知り合いで、ジェンキンス氏と関わりがあるという方は。特に弁護士仲間とかで」

「いいえ。私なんて、家庭問題を扱っているだけの弁護士ですから」

「わかりました。またお話を伺うかもしれないので、よろしくお願いします」

「是非とも」

 メリアム警官はくるりと向きを変えて、僕のことを睨みつけてから出て行った。どうしてああも威嚇を振りまいているのだろう。僕は肩を竦め、ブルースを見た。

「政治家なんて、恨みを買われるのが仕事みたいなものだろう」

 彼もまた呆れたような顔をしていた。時計を見やる。彼はまた小さくため息をついた。

「昼食、買ってこようか」

「あぁ」

「なににする」

「いつもので」

 わかったと返事をした僕はコートを再び借りて、いつも行くデリに足を運んだ。

 メインストリートの向こうには、まだパトカーが止まっていて、メリアムたちがあちこちに聞き込みをしていた。その反対方向に歩いて、褪せたオレンジの看板のデリに入った。新聞と雑誌が壁に立てかけられていて、棚にはスナック菓子とボトルに入ったジュースや水、デリのキッチンで作られたクッキーやランチボックスなども置いてある。ここの店長であるおばあちゃんが、カウンター奥に釣り下がっているテレビに体を向けていた。そのすぐ隣の戸棚には、サプリメントがどっさり入った瓶の列ができている。

 僕が入ってきて、同じようにテレビに目を向けると、「物騒ね」とぼやいた。僕はそうだね、と相槌を打った。ずっとニュースが流れている。生きていたときの男が、ワゴンから顔を出して周囲に手を振っている。彼を応援する声があって、映像が切り替わると、今度は誰かと固く握手をしている。そして今度はレストランの映像。夜の背景に、小さなランプが看板を照らしているはずなのだけれど、肝心の文字はぼかしがかけられている。

「いつものでいいんだっけ」

「うん」

 おばあちゃんはカウンターのケースからサンドイッチを出した。

「あのジェンキンスてのは、あんた、どういう議員だったか知っているかい?」

「ううん」

「奴の公約の一つは、この街の全ての人間にポッドとサプリを支給することだった」

「お湯を沸かす方じゃないやつ?」

「あんたはたまに変わったことを言うわねぇ」

 おばあちゃんは丸く見開いた目をぱちくりさせてから、小さく笑った。サンドイッチを紙にくるんでから、コーヒーを淹れてもらう。

「そうかな」

 こんな寒いときに、みんながお湯を沸かせたらきっといいことなんだろうな、と思ったのに。

「まぁ、私たちのときにも、親が死ぬ前に墓の準備なんかもしていたもんだけどね。あんた、墓って知ってるかい」

「うん、知ってる」

 おばあちゃんは、時折自分の若い時の話をしてくれる。まだアンチエイジング・サプリもそれほど浸透していなくて、人は死ぬためにスイート・ポッドなるものに入ることもしていなかった時代のことだ。人は石で作られた墓というものの下で眠るのだ。僕もそれは知っている。みんな黒い服を着て、儀式をするんだ。でも、おばあちゃんは僕なんかよりもずっと物知りだ。

「またその話、してね」

「覚えていたらね」

 コーヒーが二つ揃ったので、僕はお礼を言ってデリを後にする。テレビではコマーシャルが流れていた。一日の間になんども聞く言葉だ。

『あなたの健全な精神と身体のパートナー、ワトール・コーポレーションがお送りしております。』

 メリアムがデリの前をうろついている。やがて、僕のことを見つけると、「さっきの」と声をかけられた。さっきはろくに顔なんか見なかったけれど、彼女の顔はなんだかてかてかしていた。アンチエイジング・サプリのせいだ。そういった人たちは、なんだかてかてかした顔をしている。この街の多くの人がそうだ。だから僕は、この人の顔なんかすぐに忘れるだろう。

「なに?」

 彼女はその顔を僕に向けた。片眉が上がっていて、じろじろと見てくる。

「何度も悪いけど、あなたの名前も一応聞いておこうかと」

「ベンジャミン」

「ありがとう。連絡先は?」

「ブルースと同じ」

 メリアムはメモに僕の名前を書き付けると、そのまま上着のポケットにしまった。

「一つ聞いてもいい?」

 僕は興味本位で尋ねた。

「手短に」

「この前、ホームレスが死んでいたんだ」

 僕はこの間路地で、丸くなったまま倒れていた彼のことを思い浮かべた。

「それが?」

「彼のことはだれも調べないの?」

 刑事さんはきょとんとしていた。そして、ため息まじりに答えた。

「だって、ホームレスでしょう? この時期じゃ凍死しても無理ないわ、かわいそうだけど」

「彼はポッドに眠るの?」

「さぁ。悪いけど、それは私の仕事じゃないから」

 メリアムはそんなことか、と言いたげにパトカーに踵を返した。

 命なんて、こんなものだ。僕はお腹が空いたし、コーヒーが冷める前に戻らなくてはいけない。冬に飲む冷えたコーヒーは、なんだか置いていきぼりにされたような気分にさせられるんだ。



■ 「The Wall」

長編(小説)  
サイズ:B6 頁数:178
物語:
『壁』で仕切られた大きな街。
一つはウォード、一つはガーデンと呼ばれていた。
夢を諦めた『壁』の清掃員・アーチは、大事な妹の結婚式を控えていた。
ささやかな幸福の日に立ち会うはずだったが、当日、妹たちの姿はなかった──。


「The Wall」前日譚・・・・・・アーチとバートが会った日の話 

 アーチは褪せたジーンズのポケットに手を突っ込み、背中を丸めて歩いていた。日は暮れかけていて、夕焼けは壁の向こう側へと去っていく頃だった。冷え始めた風が路地にまで流れていく。

「本当に?」

 前日に話したミアの言葉が蘇ってきて、彼は頭の中で振り払った。本当だよ。学校に来るのは、もうこれで最後だ。退学の手続きのためのサインをしても、感慨めいたものを感じることはなかった。一年もいられなかったからだろうか。それとも、それ以上の虚無感に覆われてしまったからだろうか。彼は小さくため息を吐き出した。何か新しい仕事を探そう。壁掃除の仕事も、これからはもっと入れるようになる。いろいろとやらないとなぁ、と考えながらぼんやりと通りを歩き、ふと立ち止まった。何か買って帰ろう。レコードか、雑誌か何か。そのくらいのことをしたって今日はいいじゃないか。だってもう学費を払うことはないんだし。

 歩いていた道を曲がり、小さな店が並んでいる通りの方へと向かう。この街をぐるりと大きなコンクリートの壁で隔て、その向こう側にあるガーデンからやってくる客たちは、夜遊びにと繁華街にやって来ては日々の憂さを晴らす。大通りから外れたこの道は、ウォードの人間が寄るような、小さな店がひっそりと佇んでいる。ガーデンの人間たちの喧騒はすぐ近くに聞こえるものの、アーチの耳には遠くに聞こえていた。やっぱり、レコードにしよう。自分の部屋にはないが、アパートの階下にある店ならプレイヤーがあったはずだ。持っていけば聞かせてくれる。確かレコードショップはこのあたりにあったはずだけれど……と街灯の少ない細い道を歩いていると、人が勢いよく走ってくるのが見えた。アーチは避けようとしたが、相手はあからさまに短い悲鳴をあげて足を止めた。

「えっ?」

 きょとんとしてアーチは数歩下がる。薄着のワンピースの上に黒いジャンパーを肩にかけた女が、怯えた顔をしていた。自分と誰かを間違えたのだろうか、それとも追われているのだろうか。彼女の肩越しに後ろを見てみたものの、人の気配はない。

「あの、大丈夫……ですか?」

 アーチはそっと声をかける。すると彼女は自分の両肩を抱えるように腕を交差させてから、何度か頷いた。ふと足元を見ると、靴を履いていなかった。顔をもう一度見ると、口の端が切れ、右目には痛々しい青痣が出来ていた。

「逃げるところ、ある?」

 ただならぬ状況から逃げて来たのだと察し、アーチが再度尋ねる。彼女は泣きそうになるのを堪えながら、もう一度頷いたがそのまま俯いた。

「あ、あっちで……人が……」

 ようやく絞り出された声は震えていた。逃げきれなかった人がいるのかとアーチは怪訝な顔をした。まだ彼女は何かを言おうとしていたが、結局そのまま早足で彼の横を通り過ぎて行った。

 アーチは頭を掻いた。ウォードでの面倒事など茶飯事だ。繁華街になれば喧嘩も酔っ払いも景色の一つに過ぎないとまで言われる。このまま関わらなければ、それで済む話だ。けどなぁ、と彼は大きく息を吐いた。妹の顔がよぎる。先程通り過ぎて行ったのは妹と同年代ほどだったろうか。

 様子だけ見に行って、手に負えないのならこっそり逃げよう。アーチはそう決めて早足で道を進んだ。道の先は左右に分かれていたが、右手側はすぐに行き止まりになっていた。建物の裏手になるのだろうか、膨れたゴミの袋が転がっている。その上に人が倒れ込んでいた。倒れ込んだ人影の前には人の姿が三人。いずれも男だ。どう見ても三対一、先程の彼女が心配していたのはあの倒れ込んでいる男の方だろうか。俺には相手にできないなと息を殺して後ずさる。

「なぁ、この男もなかなか見られる顔してないか?」

 立っている男のうち、アーチから見て一番右にいた男の嘲笑う声が響いた。すると、ゴミ袋の上に倒れていた男が上体を起こした。

「女の扱いもわかっちゃいねぇのに、俺の相手が出来ると思ってんのかよ。これだからガーデンのボンクラどもは」

 アーチはぴくりと眉を動かした。

 ガーデン? じゃあ、あいつらはこっちに来て女に手をあげて、その連れにも三人がかりで殴っていると?

 これがウォードの人間同士の喧嘩であれば、声をかけて逃げ出すくらいで済ませていたかもしれない。あるいは、適当に大声を上げて警官が駆けつけることを期待するか。

 ただ、ガーデンという名を聞いた途端、アーチは一層の苛立ちを覚えた。物心ついたときには周囲の大人たちから、ガーデンという壁の向こう側からされてきたことを聞かされてきた影響もある。今日はいろいろと思い出させられることがあるな。

 アーチは静かに息を吐き出した。怒りはあるが冷静さもわずかばかりにあった。足元に視線を落とし、つま先の近くにあった空き缶を一つ拾いあげると大きく振りかぶって投げる。缶は回転しながら、真ん中の男の頭に勢いよく当たった。中身が底に残っていたのか、飛散した甘いアルコールのにおいが周囲に広がった。ぎゃ、と声をあげた男がこちらを振り返った直後、ゴミ袋の上にいた男がそのうちの一人に勢いよく殴りかかった。アーチは三人を交互に見る。左側に立っていた男が肩をいからせてこちらに近づいてくる。拳はきつく握られていた。

 あぁ、やっぱり関わるんじゃなかったという後悔が振り上げられた拳と共に襲いかかる。それでも、見過ごした後に後悔を感じるのも嫌だった。左頬を思い切り殴りつけられ、よろけた直後に髪を掴まれる。痛いと言っている暇もなく、無我夢中で相手の脛を蹴って突き飛ばし、右の拳で殴った。思っていた以上に手が痛んだ。

 喧嘩には慣れていない彼は、結局それからも数発殴られてようやく一、二発仕返しが出来たほどで、あとは勢い付いたゴミ袋の上から起き上がった男が、またたく間に三人を気絶させた。先ほど倒れ込んでいたのは何だったのかと思うほどに、動きは軽やかだった。

「お前喧嘩弱いな」

 男は肩で息をしながらも笑っていた。ようやく近くで顔を見ることができた。若い男だった。アーチと同年代か、もしくは少し下だろう。適当に切られた金髪に、端正な顔立ちだった。薄暗くなって来た路地に心許ない該当が、切れ長の目を照らしている。鼻血を流し、額にも短い切り傷を付けていたが、それさえも、彼がどこかのアクション映画から抜け出してきたかのようだった。

「……邪魔したよ」

 アーチは我に返ってため息をついた。口の中が切れて血の味がした。ぺっ、と血の混じった唾液を吐き出す。鉄のにおいが鼻にまで上がって来て、鼻血でも出ていただろうかと鼻をつまんだ。それに、殴り返したときの右手がじんじんと痛む。最悪な日だ。掴みかかられたせいで上着のボタンの一つが千切れてどこかに行ってしまった。あたりを見渡しても見つからない。レコードは諦めて、大人しく家に帰ろう。

「あんた、なんで首突っ込んだ? ウォードの人間だろ」

 去ろうとしたところで、男が再び声をかける。

「なんとなくだよ」

「どっか向かってたんじゃないのか」

「レコード屋な。でももう疲れた。大人しく帰るさ」

「なんだ、客か。じゃあ来いよ」

 あっけらかんとした表情で男は歩き始める。付いていく気にはなれなかったが、男は数歩先のところで振り返って「早く!」と急かした。仕方なしにアーチは向きを変えて後に続いた。

「逃げてきた子、あんたの連れじゃないのか。迎えに行かなくていいのか」

「自分で逃げられてたから、大丈夫だろ。俺の実家の子でさ」

「は? 親戚?」

 意味がわからずにアーチが聞き返すと、男は軽快な笑い声をあげた。よく見れば、男は薄手のシャツを一枚着ていただけだった。先程逃げて来た彼女が肩にかけていたのは彼の上着だったのだろう。

「そうかもな。俺の実家、グレイマムのとこの店。男たちの楽園。意味わかる?」

「馬鹿にするなよ」

 所謂娼館と言われる場所だ。

「さっきのガーデンの客はさ、出禁になってたんだ。金あるフリばっかりうまくてよ。酒癖は悪いし、手はあげるし。さっきの子は奴らのお気に入りの一人で、つけ回してやがった。俺はママの言いつけで近くにいたってわけ」

「なら、警察に渡した方がよかったんじゃないか?」

 アーチは吐き気のする思いを飲み込みながら言う。

「それであいつらがウォード出禁になってくれるなら俺だってやるさ。けど、警察に渡したところで、あいつら連中を逮捕すらしねぇよ。却って逆恨み募らせるだけだから、ああやってぶん殴っちまった方がいいんだ」

 男はわざとらしく肩をすくめた。男の言うことも一理あると、アーチはしかめ面をして視線をそらした。ガーデンの人間には、ウォードにやって来ては好き勝手に荒らしていく者も少なくない。抵抗をしても、それはさまざまな力によって押し潰される。

「それに、あの三人組の中の一人はウォードの人間。おこぼれもらうために金魚の糞やってる奴もいる。キリがないだろ」

「あぁ……」

 アーチはため息をついた。

「ショックか?」

「いや、そんなに。けど、こんなこと続けていたら、お前が殺されるだろ」

「ご心配どうも。俺もそれなりに学習はしてるさ」

 照明がほとんどついていない通りの中、二人はレコードショップの前に着いた。窓ガラスの前には格子のシャッターが下され、数段上がった扉の先も暗かった。どうやらもう閉店してしまったようだ。男はズボンのポケットを探り、くしゃくしゃの煙草の箱を出した。

「一応。礼にやるよ」

「じゃあ、もらっとく」

 アーチは差し出された箱から一本取り、火をつけてもらうとゆっくりと吸い込んだ。久しぶりの煙草に、喉に少し違和感を覚える。口の中に残った血の、生臭いにおいがチリチリと焼かれるようだ。切れた唇の端がかさぶたになりかかっているのを指先で触る。男は扉の前に座り、煙を輪にして吐き出した。

「むしゃくしゃはしてた」

 ぽつりとアーチは呟いた。男は少し考えてからにやりとした。

「これ吸ってる間のぶん、聞いていてやろうか?」

 アーチは躊躇ってはいたものの、どうせもう会うことはないだろうし、知らない人間だからこそ言えるものもあるかと、彼は何でもないように話した。

「学校やめて来たんだ」

「学校?」

「そう、専門学校」

「なんの」

 聞かれて躊躇うのも気恥ずかしかったが、思わず口を開きかけたままゆっくりとまばたきをし、言葉を濁した。

「デザイン系」

「ふーん」

「そっちは、ここの店員?」

「いや、ただ寝泊まりに使ってるだけ。このジイさんの店、何年か前に空き巣に入られてよ。それから留守番で寝床借りてんだ」

「じゃあ、さっき言ってた実家ってやつ?」

「まさか。たまに顔見せに行ってるだけ。なに、興味あんの?」

「ないね。それに、金のない客なんて願い下げだろ」

 ため息まじりに煙を吐き出す。男の軽快な笑い声が返ってくる。

「そりゃそうだ。あっちだって、食っていくための手段でしかないんだ。願い下げだろうよ。色々と適当なことやって小遣い稼ぎして食い繋いでる。なんか仕事知らない?」

「俺が知りたいよ」

 言ってから虚しくなり、アーチは額を掻く。

「で、何の話だっけ」

「学校やめた話」

「そうだった」

「親父がさ」

 言いかけてまた言葉が途切れる。怒りもあるが、諦めているのだと自覚していた。

「クスリ? 酒?」

「酒」

 これもウォードでは珍しくない話だ。男も驚いた様子もなく、へぇ、と相槌を打つ。

「施設に入れてる。そこの料金が上がって」

「あぁ、そういうこと」

 アーチはもう一度ため息をついた。高校をなんとか卒業し、働き始めた。けれども心のどこかでは諦めきれない思いがあり、一年間働き詰めの日々を送り、どうにか金を作った。あとは学校に通いながらでも払えると目処が立ったというのに、その生活は一年足らずでへし折られた。料金が上がったのは税金が上がったとかそんな理由を施設の職員から苦しそうに説明されたが、理解することもままならず、ただ頷くしかなかった。それだというのに、あの親父は変わる気配もない。会えばつまらないことをきっかけに口論になり、いつもうんざりさせられる。煙草を片手に持ったまま、アーチは頭をがしがしと掻く。

「誰か殺してくれないかなとか、勝手にくたばらないかなとかって思うんだけど」

「わざわざ施設に入れてるわりには、そう思うもんか」

「そりゃ、思うだろ」

 放り出してしまえばいいじゃないか、と男は言外に伝えようとしているのだろうか。アーチはぼんやりと考える。もういいです、施設から出してやってください、あとは好きにやらせておきます。路上で寝ていたって、店で喧嘩したって、俺の知ったことじゃない。……そう言ったら、妹が悲しむだろうか。

 いや、今のは妹を利用した言い訳だ。結局、心のどこか隅の方で、自分自身がそうしないといけないと思っていることには、気付きたくなかった。

「いろいろあるんだよ」

「実の親がいるっつーのも、面倒なもんだな」

 男は短くなった吸殻を地面にひょいと投げて立ち上がった。ポケットから鍵を出すと、扉を解錠する。実家に親がいるんじゃないのか、という疑問が沸いたが尋ねることはしなかった。

「店ん中、見てくだろ?」

「いや、やっぱり今日は帰る。煙草ご馳走様」

 アーチも吸殻を足元に落として踏み、その場を去ろうとした。男が短く呼び止める。

「名前聞いたっけ?」

「聞く必要ある?」

「名乗れないのかよ、アーティスト」

 いたずらっぽく男が言う。仕方なしに彼は苦笑混じりで名乗った。

「揶揄うなよ。アーチだ」

 男はアーチの顔をまじまじと眺めてから、首を傾げた。

「そういえば、どこかで見覚えある気がするんだよな」

 今になって急に何を言い出すのかと、アーチは力なく笑った。彼の方はと言えば、男のような人物を見た覚えなどまったくない。あったとしたら、おそらく記憶に残っているはずだ。すると、男はぱちんと指を鳴らした。

「お前、映画好きか?」

「……まぁ、たまに観るけど」

「ヒューゴ・ブラックウェルって知ってる?」

 アーチはぎくりとしたものの、軽い咳払いをして誤魔化した。

「そいつが若い時に監督をやっていた時の……」

「脚本家か?」

 アーチは驚きと呆れの両方を浮かべた表情で遮る。男の方も目を丸くしていた。まさか先に言われるとは思っていなかったのだろう。アーチは首を横に振った。

「結構マニアックなもの観るんだな」

「見る目があるんだよ」

 いや、ないね。アーチは皮肉っぽく唇の片側だけをわずかに上げた。

「その脚本家が、今矯正施設で酒と格闘している男だよ」

「……じゃあ、アンジェリカ・オルコットの」

「随分前に出て行ったよ」

 自暴自棄になりそうな思いでアーチは早口で言った。

「顔なんてよく知ってるな」

「映画の古いチラシに写真載ってたぜ」

 少し自慢げに言いながら、男はそれ以上の質問はして来なかった。

「そういえば、そっちの名前は」

「バート」

 男はポケットに両手を突っ込んで答える。本当に知りたくて聞いたわけではなかったが、自分だけ名前が知られているのが嫌だっただけだった。数日したらすっかり頭からは消えているだろう。男に背を向けて少し歩いてから、アーチは振り返った。

「仕事だけど」

 バートは店の中に入ろうとしていた。開いたドアには彼の手がかかったままで、室内から彼が顔を出していた。

「食堂のホールなら、ツテあるけど」

 男はきょとんとした顔をしてから、表情を和らげた。

「考えとく」

「どこかでまた会うようなことがあればな」

 きっとそんなことはないだろうけど。アーチは内心呟き、踵を返して再び帰路に向かう。俺もしばらくはグライドのキッチンで手伝いをしながら、昼間に働ける仕事を探すか。壁掃除は夜中の仕事だから、時間の都合の合うものを見つけないと。

 そういえば、レズリーになんて説明しよう。学校をやめたことも、怪我のことも。学校やめたって聞いたら、きっと落ち込むんだろうな。学校に行くことを相談したとき、まるで自分が通うかのように喜んでくれていたのに。あぁ、それに上着のボタン。何か替えのものがなかっただろうか。ミアにいらないあまりがないか聞こうか、いや、辞めたばかりの人間が簡単に連絡するのも気が引ける。しばらくはこのままでもいいか。

 帰宅して真っ先に、いつもよりも帰宅が遅いことを心配していたのか、ソファの隅で座っていたレズリーが勢いよく立ち上がった。表情は安堵していたが、すぐにそれは驚きに変わっていた。怪我のことを尋ねられ、アーチは出来るだけ冗談を混ぜて話した。どうにか収まったリビングの空気を、今度は退学の話で再び騒がせたくなく、伝えられなかった。まぁ、そのうちでいいか。仕事が決まって新しい生活が見えてきたころでも。

 そうやって先延ばしにした日々が数日続いていた矢先、アーチはあの男とばったり再会してしまった。会うことはないだろうと決めつけていたので、すっかり彼の名前を忘れてしまい、ただ、印象に残る整った顔立ちをまじまじと見つめた。よりにもよって、繁華街から外れた通りにある、映画館のすぐ近くをレズリーと歩いていた時だった。

 あぁ、そうだ、こいつはマニアックな映画好きだったっけ。

「えーっと、名前なんだっけ」

 先に尋ねて来たのは男の方だった。アーチはこの男が「バート」と名乗っていたことを思い出していた。初対面を装ってしまおうかと思ったのだが、バートがぱちんと指を鳴らした。

「オルコット」

 先にそっちの名前が出てくるか、と内心舌打ちをする。レズリーが知り合いなのかと二人を交互に見る。

「思い出した、学校やめたアーティスト君」

「アーチ」

「待って、今のどういうこと?」

 レズリーがさっと兄の顔を見る。しまった、と彼は片手で顔を覆った。バートはその様子を見てにんまりとした。

「そういえば、仕事の紹介してもらう約束してた気がするなぁ。ホールだっけ?」

 アーチは再びため息をついた。やっぱ言わなければよかった、とあの時の自分を恨んだ。

 けれど、あの日缶を投げたことは、後悔していなかった。




「寄せ植え」500円
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は、文学イベント東京 販売予定作品です。

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