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ペンギン、そしてレモネード

 戦争が近づくと増える仕事。
 すぐに「傭兵」が急募されるだろう。でも、それが「文系」対象なら…。

 アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは…』を読んだ。

 1930年代、ファシズムが近づくポルトガルが舞台。中年の新聞記者ペレイラは文芸欄を担当していたが、「死亡記事」の原稿執筆のための人材を求めたところ、訳ありの大卒の若い男性と出会い、そこから話は何やら政治的な緊張感が漂いはじめる。リスボンの暑い昼下がり、美しい街並み、そして気怠い空気。亡き妻の写真に日々語り続けるペレイラは常にやり場のない気持ちをかかえ、今日も冷たいレモネードを飲み、生きている。
 しかし、気弱な彼も最後は彼自身で決断をすることになる…。

 どうやら「追悼記事」というものは著名人の逝去に備え、翌日の朝刊に掲載できるように事前に準備しておくものらしい。そして、これが時代のなせる業なのだが、その内容は政治的な意味を持たざるを得なくなる。
 
 この本を読んで、すぐに思い出したのは、アンドレイ・クルコフの『ペンギンの憂鬱』だ。
 旧ソ連崩壊後の新生ウクライナのキーウ(キエフ)。売れない小説家が生活のために新聞の「追悼記事」の仕事を請け負う。旧ソ連のマフィアがからむ政治的な対立の中、依頼された「追悼記事」の人物はその後まもなく死亡するのである。つまり、予定された「死亡記事」だ。

 憂鬱症を抱えたペンギンのミーシャとの同居生活は、じわじわと近づく政治的な事件の緊張を微妙に緩めてくれる文学的な味付けだ。

 二つの小説はヨーロッパの片隅にある小国。近くの大国の圧力の影響を受け、日常がじわじわと侵食されていく。これは現在でも起こり得る事態だろう。

 「追悼記事」に政治的な忖度が必要とされない時代は来るのか。

 文学的な創意で立ち向かうしかない。
 

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