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すべては翻訳かもしれない

 むかし、日本の多くの大学には「一般教養」科目というのがありました。(「リベラルアーツ」とは似て異なるもの)。とりあえず、広く浅く、専門分野の入門的な知識を学ばせるものですね。

 だいたい、生協で指定図書を買い、さらっと読めば単位は取れたものでした。私も、そこそこの成績で単位を取ったのですが、唯一「哲学」の試験につまづきました。

 その試験は机の上に置かれたカップを見せて、「これは動いているだろうか」というような問題だったように記憶しています。

 知識詰め込み、正解主義に毒されていた私は、何を書いていいのかまったくわからず、途方にくれていました。

 「この問題に正解はない」と今なら言えると思います。

 哲学というものは、問い続けることの学問でしょう。ものごとに正解はなく、「カップ」を見る視点も多様であるということなのだと思います。

 さっきの「カップ」は、チラッと見ただけでは動いていませんが、千年後には崩壊しているかもしれません。あるいは、工場でつくられ、お店で売られて、教授が買って持ち帰ったという動きは…。

 問題はどのような「ことば」で表現するかということです。 

 今、わたしたちのことばは、豊かでしょうか。

 ことばには意味があります。その意味はできるだけ限定されていた方が社会的には便利でしょう。政治経済や科学技術、そしてビジネスの分野では専門用語の習得は必須です。

 専門的、実用的なことばを否定することはできませんが、何やら窮屈です。しかも、優劣や数字をもとに人や社会を評価する価値観をともなっています。

 そうしたことばばかりを使っていると、そうした価値観で生きていく人間になってしまいます。

 さて、私は引越し貧乏です(ホントに)。

 東京で生まれ、四国、沖縄、京都を転々としてきました(短期でイギリスや中国にも)。

 日本の地方は本当に文化が多彩です。新しい土地を訪れるたびに、私は境界と出会います。方言ということば、食文化、考え方など。

 そのたびに、意味をくみとり、自分なりに理解しようとしてきました。これは一種の「翻訳」かもしれません。

 結局、ずっと「よそ者」感はなくならず、つねに距離感を意識して暮らすようになります。

 この現象はおそらく歴史的な国境を越えた海外移民、その子孫たちの経験と相通じるものでしょう(もっと強烈なかたちだと思いますが)。

 考えてみれば、すべての生命活動は「移動する」ことで成り立っているのではないでしょうか。植物だって種を飛ばしますし、動物はエサを求めます。彼らの生命活動も、さまざまな「置き換え」という、広い意味で「翻訳」とは言えないでしょうか。ただたんにことばではないだけで。

 一番、移動しているのは人間です。

 そして越境すれば、必然的にさまざまな「翻訳」がはじまります。文明化も、一種の「翻訳」でしょう。越境し、異文化に触れ、アイデンティティの形成が促され、共同体や国家が形成されます。

 そして、強い国家、強い言語が作られていきます。そして戦争…。

 ジュンパ・ラヒリというベンガル系のアメリカ人作家がいます。家庭ではベンガル語、外では英語で育ち、英語の小説を書くことで一躍有名になったのです。しかし、その後イタリア語への愛が芽生え、イタリアに渡り、何とイタリア語で小説まで著してしまいます。

 「どちらとも一体になれなかった」というラヒリは、イタリア語と出会って、ベンガル語と英語を用いる時の心理的な葛藤や不自由からの自由を獲得していったのです。

 「英語でははっきり言う勇気のなかったことが、イタリア語では表現できる」とも言っています。

 このことばの背景は複雑だと思いますが、イタリア語を獲得して、やっと自分を表現できた、ということなのかなと感じます。この後、ラヒリは自らのイタリア語の作品を英語に翻訳します。これによって、ようやく精神的な安定を得たのかもしれません。

 ラヒリのように、多言語間を行き来する作家には、村上春樹や多和田葉子がいます。彼らの文学はおそらく、一つの言語の中では完結してなくて、「翻訳」が前提になっているように思います。内容がすぐれているから、多くの外国語に翻訳されているのではなく、はじめから「国境を越えている」、「翻訳がなされている」のではないかと。

 わかりませんが、とても興味深いことです。
 
 本来、ことばは個に属しているはずなのに、国家・国語と結びつくようなことになっています。

 先日、独立系出版社が集まり、リトル・プレスやZINEを販売するイベントに行ってきました。

 そこで、詩やエッセイを立ち読みしていたら、あっという間に時間が過ぎていきました。それは、自分のことば、生活に根差したことばに満ちていたのです。個人的な事情やら、ジェンダー平等など社会的なものもありましたが、そこにあったことばは、国家や企業が語ることばに支配されていません。

 詩の世界にはすぐに入れないです。個人の生活世界だから。それは簡単には翻訳できないことばの世界なのです。

 わたしという個にとって、本当に大切なことは、国家が発する大きなことばでは表現できません

 つぶやきみたいに、小さなことばを使う。

 簡単には伝わらないけど、語り合おう。

 新しい世界が見えてくるかもしれないから。

 すべては翻訳…

(そういえば、小説って、「小さな」説ですね。)

 

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