知的活動・社会参画・人の品位について

あらゆる行動・運動・変化は故意過失に関わらず周囲に影響を与える。
また、社会におけるそれらの影響は行為者の意図したとおりに行かないのが常であり、全くの逆効果になることも少なくない。
そもそも、隣人の心情も正確に量れぬ者がどうして社会の動きや自然環境との関わりを推し量ることができよう。大局観よりも先に情緒を心得て欲しい。
周囲の人間関係は人間社会の縮図であり、その社会は人々と人ならざるモノの関わりから成る。全体は細部に宿り、細部は全体に倣う。そして細部の集合は全体とは異なる。われわれはここに『部分は全体から不可分である』という矛盾と出会う。

<変化と苦楽について>

「人の世は変化に慣れすぎている。」
人は退屈を嫌い、絶えず変化を求めているようである。

しかしながら世の中の変化を正確に把握できる者はいない。把握しようとすること自体無意味である。あらゆる変化は両面性を有する。あらゆる時間のあらゆる主観をつなげれば変化に良し悪しはなく、創出も消滅も同等に大きな価値を持ち、なおかつ無価値である

何も大それたことを成さずとも、人の目に立派に映らなくとも、産まれた時のように自由に裸の身体を基礎とし、生きることに対し少なからず期待を持って今日を過ごせたならば、十分すぎるほどに生を全うしていると言えよう。

ときに生きることを苦痛に感じる者がある。これは甘えではない、贅沢である。
ときに生きることを幸福に感じる者がある。これは身に余る贅沢であり、苦悩の根源である。
人の情緒は贅沢により成り立っている。
生きることは苦しいことではない。生きることは幸せなことではない。
生きるとは時間の流れにたゆたうことである。川面に浮かぶ落ち葉のように。

自身は全体の一粒であることを悟り、絶えず変化する言語社会が誤謬と欺瞞に満ちていることを知り、体が求める最低限の生活に身を置くことが生を全うするのに最も適している。
社会の変化については個人が一生のうちに変化を感じることのないほどの穏やかな変化こそ至適であり、四半世紀で生活様式が大きく変わるような環境は苦悩と幸福の織り交ざった激動の社会にならざるをえない

そこで起きる事柄は、贅沢を知った生命の怠惰による全生命への反逆ともいえよう。我々の苦悩はどれをとっても、「豊穣に浮かれて宴を催し、度が過ぎて後に首を絞めることになる」のに似ている。

<書くということ>

書を認(したた)めること、これは贅沢である
それを公表し世に広めることは更なり。
思考を残すということは思考が断絶せずにつながっていくということであり、それがさらに変化を受け、利用されるということである。あらゆる文書は思想のための一技術であり、思想は文明そのものである

書物としての大きな発明は科学のそれに似ている。
どちらの発明も良くも悪くも取り返しのつかないものである。
言語を解するということは文明に参画し、少なからず筆を加えるということである。
『そこには崇高で緻密な文章を書く者もいれば、本を黒く塗りつぶすだけの者もいる。』

言語は人類の発明した技術として現代のいかなる科学的発明にも引け劣らないこの上なく便利でありその危険性は広く周知されているが、正しく扱える者は少ない

<考えるということ>

「人は諦めない限り悩み続ける。」そして、悩み考える時間に恵まれるというのは贅沢である。その苦しみから脱しようとすることは更なり。

人にはそれぞれの悩みがある。「時間1つに意識1つ」考えてきた巡歴が人格を成す。
『何に考えを巡らすか』
人として生きる上で最も重要な命題はこれである

したがって成果だけからその人の性質を正しく判断するのは難しい。

折に触れ、何かにつけて最大限に考えて生きてきた者は強い。彼らは年齢に比例しない知的経験から複雑簡素な精神を有し、想像力と協調性に長け、他者を尊敬し労わり、何事も軽んずることがない。

【小人】不配慮に行動する者は中身の伴わない肩書を得るに一生を費やす。

【大人】常に意識の届く限り配慮する者は溢れる思いやりで辺り一面を潤す。

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