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わかっているようで、わからない謎を考えてみた


「カインはなにゆえアベルを殺したのか」・・そもそも「神」とは何か?から始める考察

「宗教」というものを研究していくと、
結局突き当たるのは「神」と「人」との関係性なんじゃないのかな
そんな事を思うようになりました。

 ここでいう「神」というのは、私たち「個人」との、
ある意味絶対的な存在である「神」という概念です。

 結論から言うと、あたしたち「人間」という存在は、
おのれに対する対極としての存在。
すなわち「カミ」という対象があって成立するのだ。
という事です。

 ですから、仏教においても、
「ダルマ」=自然の摂理という
絶対的な真理という”カミ”の存在」
は概念としてあり得るわけです。

 人がそこに存在する以上、おのれと絶対の関係にある
「なにか」それが「カミ」という概念である。
そう考えるわけです。

 これは、「カミ」の対象が、
自分を存在させている「なにか」であるという事です。
極端な話、「自分という存在を意味づける依り代」
それが「カミ」の正体ではないのかと、最近思うようになりました。

 そのきっかけは、「旧約聖書」の「創世記」です。
あたしはクリスチャンではないので、「読み物」に近い存在でした。

 たしかに「旧約」は、すべてにおいて示唆的であり、
暗示的で、全く真意が読めないのですが、
「あれ?これは」という、
いわば「黙示=観ぜよ」という内容なのかな。
と思って読み込むと。「疑問の中の解」が
自分なりに感じるものがありました。

 「旧約」を旨とするユダヤ教では、
「律法学者」という方々がおりますが、
この方がたは「聖書」の解釈を専ら行い、
その「あるべき解」を人に伝える存在です。
そして面白いのは、その解釈は常に一定ではないという事です。

そもそも「カミ」とはなんだろうか

 言い換えれば、それだけ「旧約聖書」は
解釈が難しいものなのではないのかという事です。
ですが、逆に「自分とカミとの関係」を
あらためて考える「媒介」
なのかも知れないと思います。
 これは、「祈り」とか、「坐禅」、「念仏」などにも
通じるのではないのか。そんな事を考えてみたのです。

 あたしは今まで、一神教のGodやAllahのような存在と、
Animismのような本来自然の信仰とは別なものだと思っていました。 
 ですが、たとえば「カミ」など
関係ないように思えるような仏教ですら、「三法印」という
「人にはどうしようもない真理」の存在を明確にしていますし、
「旧約」の理不尽な創造主の行いも、
実は「どうしようもない真理」の象徴なのではないのかと考えると、
最近は「すとん」と何かがわかってきたような「気」がしました。

旧約聖書の中で、めっちゃ不思議に思ったのが、
「カミの意志」が、時折人間を意地悪に試す事です。
でも、これはどこか象徴的な意味があるのかな。
そう考えたわけなんです。
 
 まず、「カミ=GOD」という存在は、
絶対的な「創造主」という概念でとらえられるわけです。
ただ、一つ思う事ですが、この「GOD」は
各民族に共通する「神話」の登場人物としての
「カミ」とは意味合いがちがう存在なのではないのかと考えるのです。
というか、「存在」ですらない「全知全能のなにか」なのです。

仏教的な言い方で言えば、「ダルマ」であったり
「尽十方界真実」と同じ概念が、「God」「Allah」に共通する。
すなわち、「人の考えや思い願いなど全く関係のない」
どうしようもない「絶対的な真実」
という事なのではないかということです。

 現に、それを説明しようと思うのですが、
実際言葉では象徴しきれません。
とにかく、人の思惑を超えた
「なにか、壮大な宇宙の意志」の中にあたしたちはいるのだ。
という「事実」がそれなのかも知れないと思うわけです。

「カミ」にかんする「仮説」

前振りにこれを打ち出したのは、
ホントに失礼な試みではありますが、「仏教研究者」のあたしが、
「聖書」の中の「カミ」の概念は一体どういうものなのだろうと、
バイアス抜きで考えてみようと思ったからなのです。

 近代の哲学者などは「カミ」とは
人が創り出した「相対的概念」の産物である。という人もおります。
しかしながら、人が思う「カミ」という概念を
もっともっとたどっていくと、「どうしようもない現実」が、
そこにあるんじゃないのか。

そして、そのことを「具現の観念」として
認識の対象としたのが「カミ」というものなのではないのかと、
ひとつの「仮説」を立ててみたのです。
深遠な過大なゆえ、ちょっと長いシリーズになると思いますが、
「マガジン」を有料化する気はありませんので、
どうかおつきあいください。

旧約聖書の疑問その1=なぜ、知恵の実を食べてはいけなかったのか

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旧約聖書の「創世記」をひもといてみて、
一つ読み方に縛りをつけてみると、
「God」の本質や「理不尽さ」
なんとなく見えたような「気」がしました。
言ってみれば「God」は、少なくともこの世の存在に対して
「必然で存在させ、その恵みを与えたが、
必然で救済するべきものでもなく、必然で破滅させるものでもある」
という事です。

 そこには「人間の意志」が介在する余地などはなにもない。
という厳然とした「事実」の概念が
いわゆる「God」である。という事です。

 ですから、「カミ」によってあたしたちは
「生かされて」いるのであって、その生殺与奪は
すべて「カミ」の思うがままにある。
という事です。

 これは「カミ」を「天然自然」に置きかえると、
よくイメージできるのではないでしょうか。

アダムとエヴァが、知恵の実を食べて、
それが理由で楽園を追放されたのですが、
これも「人間」からするととても理不尽な事です。

しかし、カミの視座からみると、「やってはいけない」という戒めを、
人間が破った事にこそ「罪」の重大性があると考えられるのです。
自然は様々なメッセージを送っていながら、
人はみずからの知恵こそがが万能であると浅ましく考える事により、
それを無視して行動を起こしてしまい、
その弊害には「無視」を決め込む事があります。
そのことが問題であり、「エデンの楽園」の近くには住めるけれども、
「楽園」に住む事はできない。とされたのです。

 この解釈はもちろん絶対的なものではないですし、
そのために「カミ」をどのようにとらえるべきか。
数々の預言者が現れて「示唆」しているのかも知れません。

 この「視点」に基づいて、
人類初の「殺人」をどう読むか試みることにします。


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