子どもたち

子どもだけが起きている - 幕張には眠っている人しかいなかった -

水曜日、クライアントワークも終わり昼過ぎから特にやることもなくなったので、ロードで適当にライドすることにした。

浅草から西に向かえば都心を突っ切ることになり、かつ相当西の方に行かなければなかなかおもしろい場所に出会えない。南は横浜方面、横浜は港町としての独特の風情や情景があって好きなのですが、いかんせん途中の川崎あたりの道が悪く、行き交う車も殺気立っているので少々気合を入れなければならない。

ということで東、千葉方面に向かうことにした。以前、幕張には行ったことがあるし、先週、柴又帝釈天へGoPro Hero7 Blackの動画撮影テストを兼ねて軽く走った際に、帰りの方向を間違えて市川近辺まで出たこともあったので、もう少し行ってみようかなと。

幕張新都心は面白い。とにかく建造物が巨大。イオンのツインタワーが見えた時には深センを思い出した。巨大な建造物の中に、フィットネスマシンが均等に置いてあり、運動している人が豆粒大で見える。

巨大な建造物は無口で、ずっと昔からそこにあったかのような佇まいを見せる。そして、それらの建造物と全く無関係に存在しているようにしか見えない歩行者たちが色の無い世界の中で、特に重要な役割を演じているようにも見えず、かと言ってそれぞれの存在を雄弁に語ることもなく、そう、ただ存在しているだけ、のように見える。

巨大な建造物たちは整然としている。同じような規格で、同じような配置がなされ、同じように人々を迎え入れ、人々が自らが望んだように思っていることを叶えたり叶えなかったりしてから、吐き出していく、同じような毎日を繰り返す。そういったことが地球が生まれてからさも当たり前のように続いて来たような勘違いすらしそうになる。

巨大な建造物たちがこのように整然と同じようなことをし続けるということの外、もしくは上、形而上、一歩抽象化されたレベルには意思が存在しているはずだ。ある種の同質的な整然さがネットワークで結ばれ、その中に人や車などのカオス的な要素が行き交うことになれば、そこには意思が生まれる。人間の脳と、人々の間に生まれる意思の構造から推測するとそうなる。

彼らは意思を持っている。

そして、人々はそれらを創造したと思い込んでいるだけであって、かつてはそれが事実であったとしても、すでに彼らの意思を構成する一つの要素にしか過ぎないということに気づいていない。

そういう意味で幕張は危険な場所だった。

帰り道、小岩あたりのセブンイレブンに定期補給で立ち寄り、外でエクレアを食べて、エネルギージェルを補給している時に、作業員風のオヤッさんからふと話しかけられた。

「いい自転車乗ってるねえ。ン十万もするんでしょ?」

こういう時、僕以外の人たちはどうするんだろう。普通に会話を始める僕は少数派なのだろうか、それとも。

彼の従兄弟が元五輪代表選手であったにも関わらず疎遠であまり交流がないこと、ツール・ド・フランスでかつてドーピング事件があったことを知っていたこと、彼自信が若い頃に体操でかなり良い線まで行ったこと、そういう情報は僕にとって何を意味するのだろうか。そして、僕も何らかの巨大な建造物が持つ意思の構成要素の一つに過ぎず、彼の言っていることも、彼らの意思を形作る上でのシナプスの伝達信号に過ぎないのだろうか、それとも。

幕張という危険な場所から帰ってくるための儀式だったのかもしれない。彼との会話が続かなければ、僕は失格し、(いつもの)浅草に戻ることもできず、偽りの現実を目の前にしても何も気づかずに、そうやって生きていくことになる。

危険な場所は、すぐそこにある。そしてそこに出入りすることも実は簡単で、そうやって人は無意識の世界で眠る。それは、かつて皆が、人として望んだこと。子ども以外はみな眠る。

大人になるってそういうことだから。

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