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Rock’nRollには日本語の詩が乗りにくいと言われた時代

こんにちは、Hideです( ^ω^ )

私が生まれた当時から、日本語はロックンロールのリズムには乗りにくいと音楽界では言われ続けていました。

「ロックンロールは、英語で歌うもの」

等々…それぞれの考え方がありました。

いわゆるロックンロール日本語論争で、様々な意見が飛びかったようです。

ビートルズが世界的に人気が出て、ロックミュージックがポピュラーになってきて、その論争も白熱化していったのでしょう。

この内容は、ブログを始めた時から、いつかは記事にしなければならないなと思っていました。

今回は、日本のミュージシャン達がどうやってロックンロールに日本語を上手く乗るようにしてきたかの話をしていきます。

昭和時代の日本のロック界いや音楽界全体を含めた永遠のテーマとなっていたこの問題。

アーティスト達はどんな取り組みを試みながら、この難問を解いていったのでしょう。

日本ロック界の歴史を振り返りながら、その流れをお話ししていきます。

現代音楽の基礎となった Beatles

1960年代後半、日本はグループサウンズブーム

当時日本の音楽界は、ビートルズの影響で、グループサウンズといったバンド編成で歌う曲が流行していました。

バンドといっても、歌謡曲の作家が作った曲で、特にそれと違ったところなんてありませんでした。

ただ形だけバンドになっていた感じです。

ですが、そこから沢田研二や堺正章、かまやつひろし、萩原健一のようなその後の日本の音楽業界を牽引するスターが生まれたのも事実です。

なんとも〜昭和ですね

ですが音楽的には、まだまだロックに関しては、プレスリーやビートルズの真似の域を脱する事は出来ませんでした。

わかりやすく言うと、昔のプロ野球みたいに、アメリカのメジャーリーグと日本野球の差ってすごくあったのと同じ位、音楽も雲底の差があったのです。

エンターテイメントビジネスとしても、日本の音楽業界、特にロックやフォーク系は、遅れていたのです。

敗戦国である日本としては、イギリスやアメリカの歌をバンドなんかでやっていると

「日本男児として敵国の歌を歌うなんて〜何事だ!」

みたいなこと言う年寄りがまだいたのです。私の子供の頃は。

音楽的にも歌謡曲から脱しきれなく、ロックな曲を作れる人なんかほぼ皆無状態でした。

エレキブームの火付け役となった ベンチャーズ

その後、ベンチャーズや日本の寺内タケシとブルージンズというバンドが出てきて、エレキギターブームが来ました。

ロックが少しずつ浸透していく過程でしたね。

そして、1970年大初期には、ベトナム戦争の影響もあり、愛と平和を歌うフォークソングブームが、日本にも訪れるのです。

こんな事からますます日本のロックンロールは遅れをとっていくことになるのです。

1972年フォークブームの中、正反対のロックンロールバンドが登場した

1973年当時160万枚を売った「神田川」

1970年代前半イギリスでは、ビートルズのデビュー前に英国の若者の間で人気だった、ロキシーファッションが再流行しているという情報が日本にもテレビを通して伝わってきました。

そこに現れたのが、リーゼントに革ジャンパーを着た4人組バンドCAROLでした。

ベースの矢沢永吉を中心とし、ビートルズと同じ4人編成で、ボーカルギターのジョニー大倉と、リードギターが内海利勝、ドラムにユウ岡崎という構成でした。

プロデューサーは、プレスリーを真似た日本のロカビリー歌手だったミッキーカーチスが担当しました。

真の日本のロックンロールバンド CAROL

私はまだ小学生だったので、リアルタイムでのCAROLの活躍は知りませんでしたが、後から色々調べると当時は、若者に衝撃を与え爆発的な人気だったようです。

音楽的にもそれまでの日本の歌謡曲に毛の生えたようなロックもどきの曲は違い、レノン=マッカートニーみたいなPOPでキャッチーで格好いいロックンロールでした。

日本のロック界が動いた瞬間でしたね。

CAROLの曲は、作詞がジョニー大倉が担当して、矢沢永吉が作曲するという、ジョニー&矢沢コンビで主に制作されました。

ここが今回のテーマに大きく関わるポイントなのですが…

最初CAROLも英語の歌詞で歌っていたのですが、ジョニーが矢沢の書いた曲に詩をに乗せていく過程で、日本語が上手く乗らないのです。

いわゆるゴロが合わない感じ。

キャロルは、そんな曲作りをしている風景をレコード化しました。

それを聴いていると、やはりビートルズチックだったメロディーに日本語を乗せるのにかなり苦労する様子が伺えました。

そこで、仕方なくというか成り行きで、日本語の歌詩の間に、元からあった英語詩を残したのです。

つまり、元々英語詞だったのに、日本語を乗せようとした為、どうしても上手くいかない部分が出てきてしまい、英語詩をそのまま残すという対処的手法が取られた、というわけです。

俗に言う日本語と英語のチャンポン歌詞というやつです。

今では、当たり前のようにどの歌手やバンドもやっていることですが、当時そんな事をして歌う事なんてありませんでしたから、当時ではかなり画期的な出来事でした。

そこで一つロックンロールには日本語が乗らない、という問題を少し改善しました。

永ちゃんの巻き舌で、日本語を英語っぽく歌う唱法も功を奏したのでしょう。

ただCAROLも僅か2年半の活動で解散してしまったので、日本語をR&Rに乗せるに関して、その後CAROLとしての発展は無かったのでしょうです。

1978年、また凄いバンドが出てきました 何を歌っているのかわからない〜

CAROLが解散したのが1975年の春で、その後すぐに矢沢永吉がソロデビューしました。

その3年後の1978年に、とんでもない歌を歌うバンドが出現しました。

そう、桑田佳祐率いるサザンオールスターズです。

未だ第一線で活躍しています。

何が凄いって、歌詞は日本語だが何を言っているのかすらわからない感じで、メロディーに日本語を乗せているのです。

英語に聞こえるような日本語を選んで歌詞にしたりしてました。

桑田佳祐自身が作詞作曲しているので、もうやりたい放題といった感じにも見えました。

デビューして間もない頃のSAS

私も当時、セカンドアルバムを買ったのですが、歌詞カードに載っている歌詞が、記号(*#$%&)になっているんです。

よくレコードを聴くと何やら、怪しい日本語の歌詞で歌っているのです。

あれは記号で書いてましたが、歌詞カードには記載できない内容だったのでしょう(笑)

今の時代だったらコンプラ問題に発展しそうです(笑)

最初はびっくりして、なんじゃこりゃ〜歌じゃないよこれ〜と感じましたが、徐々に慣れてくると…

おっこれってロックンロールのリズムに日本語がハマっているんじゃないかぁ〜

みたいな感じがしてきたのです。

もちろん字余りソングも、最初に始めたのは桑田佳祐からです。

メロディーの中に無理やり多くの歌詞を詰め込んだり、入らないと字余りでメロディから飛び出すみたいな…

もうそれまでの日本の音楽からしたらめちゃくちゃです。

しかし、そのめちゃくちゃさが、見事にハマったのです。

音楽的にもしっかりしたベースがあったから出来た技だと思っています。

まさに革命的だったですね。
サザンが奏で出す音楽は。

ここで日本語がR&Rに乗ったみたいな感じになってきました。

しかし、時代はまだ昭和、素直に受け入れる大人達は少なかったのです。

1980年、遂にロックンロール日本語論争も終結か?

80年代に入ると、桑田佳祐の音楽を引き継ぐというか、越えようとしてくる若いミュージシャンが出てきました。

とはいえ年齢は桑田氏と同じ。

和製ブルーススプリングスティーンと呼ばれるロックンローラー佐野元春の登場でした。

ロックンロールは心の落書きみたいなもの…とテレビで語る

”ビートの詩人”とも呼ばれました。

それまでの泥臭いイメージのロックとは違い、都会的でお洒落で音楽的にも洗練された感覚のロックンロールでした。

いわゆるシティPOPの要素も多分に含んでいました。

立教大出身で広告代理店に勤めた経験もある人です。

社会経験もあるので、鋭く世相に切り込んだ感じの歌詞もあり、「SOMEDAY」で人気を得て一躍ロックスターの仲間入りを果たしました。

大瀧詠一や杉真理、伊藤銀次・山下達郎とも関わりを持ち、音楽的にも彼ら大物ミュージッククリエイターからの影響が大きく、クオリティの高い物を吸収したのでしょうね。

サザンとは違い、早口も字余りもはっきりと何を言っているのかが、聴いていて分かる歌でした。

声質も桑田氏のしゃがれたのとは異なり繊細で伸びのある声でした。

言葉をメロディーにはめ込むのが上手かったですね。それも綺麗に。

決してサザンが良くないとは言いません。

いやサザンの影響を確実に受けているはず、その後デビューするチューブだってSASの影響を受けているのが聴いていてわかりますから。

1980年代に、20年近く続いていた日本語はR&Rに乗らない論争が遂に解決した、と感じましたね。

その後、佐野元春に影響を受けた吉川晃司や尾崎豊も、すっかり早口や字余りを上手く使って日本語詩をロックンロールのメロディーに乗せていました。

吉川晃司ファーストアルバム 佐野元春の曲をカバーしている

吉川晃司はNOBODYが作曲を担当していました。

NOBODYもラップの要素を取り入れ、エイトビートに言葉を乗せるのが上手かったですね。

矢沢氏のバックバンドを長年勤めていたギタリスト二人のユニットでした。

すっかり定着した 日本語詩でロックンロールを歌う🎵

1980年に終決して、若い吉川や尾崎に継承され、その後はミスターチルドレンの作詞作曲を担当する、ボーカルの桜井和寿氏に受け継がれていきました。

若い頃のミスチル桜井和寿

桑田佳祐と桜井和寿でコラボした曲もありました。

新旧の師弟コンビのようなユニットでした。

もうロックンロールはイギリスやアメリカだけのものじゃない、日本にもRock’nRollは存在する、という事を証明出来る様になりました。

1997年にエルビスプレスリー没後20年を記念したイベント「ソングス・アンド・ヴィジョンズ」がロンドンのウェンブリースタジアムで行われた際に、アジア代表で矢沢永吉氏が参加しました。

ロッドスチュアートやボンジョビ等と共演したことからも、日本のROCKは認められたと言うことでしょう。

もう80年代から永ちゃんはアメリカやイギリスの有名ミュージシャンと音楽制作したりライヴを一緒にしたりしていました。

これから、日本のロックミュージシャンもどんどん世界に飛び出していくべきだと思います。

もうロックンロールに日本語は乗りにくいなんて、壁はないんだから!

久々に熱が入って長い文になってしまいましたが、日本のロックンロールにはそういう歴史があったのですよ。

これを知ると、音楽を聴いた時に感じ方が変わるはずですよ。

ありがとうございました。

Rock’nRoll🎵

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