めめんともり

どうも。
東野京(ひがしのみやこ)です。

死を忘れるなかれなんて言葉がありますが、忘れる暇がないくらい周りには死が溢れています。

これまでも身近な人の死について記す機会が少なからず存在していました。
(過去の記事を見返してみると一定のスパンでそんな話が出てくるように思います)

今回の記事では身近とは言い難いが他人とも言い難い人の死について記していきたいと思います。




見えない死と麻痺する感覚

先日、人身事故によって足止めを食らう機会がありました。

その時の仔細は以下の投稿に記していますので割愛します。


人身事故を経験する度に悲しくなる事があります。

私もそうした感情に囚われてしまいがちなのですが、電車が停まることで目的地(会社または自宅)への到着が遅れてしまう事への不利益にばかり目が向いてしまうのです。

そんな自分が好きではなく、足止めを食らう間は意図的に事故についての思いを馳せるようにしています。

意図せぬ事故や他人による悪意で発生しているのであれば防ぐ為の手立てを考えていかなければなりませんが、そうでない場合はどうしてその行為を選択したのかという点が重要になると考えています。

自ら身を投げるに至るにはそれだけの背景があるはずで、そうさせてしまうだけの理由があるという事には思うところがあります。

独りで人知れずに終わらせるのではなく意図的に人に関わる手段を選ぶという点においても、何かしらのメッセージがあるように思えてなりません。

被害者ぶって恨むより当人について思いを馳せることの方が時間の過ごし方としては有意義ですし、せめてもの手向けになればと思うばかりです。


ニュースと連想ゲーム

昨晩の帰宅時にXを開いたところ、どこかの駅のお手洗いにクモ膜下出血で亡くなっていた人がいたというニュースが目に入ってきました。

トレンドから該当の話題を検索してもそのニュースについての有益な情報は得られず、インプレッション数を稼ぐ事を目的とした所謂「インプレゾンビ」のコピペばかりが並ぶカオスな空間に辟易してしまいます。

クモ膜下出血と聞くと、3年前の今頃に上司の身内の方が急逝されてしまったことを思い出してしまいます。

また、ニュースで東日本大震災の話が流れてくると同年に亡くなった母の事を想起せずにはいられません。

震災とは関係のないところでの死なのですが、震災の混乱が色濃く残る時期に発生した事もあって記憶の中で紐づけられてしまっています。

毎年「東日本大震災発生から〇〇年」と聞く度に母の死からもそんなに経つのかという思いに駆られてしまうのです。

未だに前を向けないまま、すぐに思い出しては感傷に浸ってしまうのが良くないなと思います。


只の隣人です 隣人です

昨日知ったのですが、居住するマンションの同じフロアの隣の隣の部屋の方が亡くなったそうです。

高齢と思しき男性で、おそらく一人暮らしだったように思います。

生前はよく外に出ていて、自転車に乗って何処かに行くところを目撃していました。

特に会話をするような間柄でもなく、顔を合わせれば挨拶する程度の関係でしかありません。

しかし、顔見知りといえば顔見知りであり、見知った人の不幸を知った私としては複雑な気持ちです。

病気なのか老衰なのかは分かりかねますが、所謂孤独死というやつなのでしょう。

何十年と続けてきた物語の結末としては寂しいものがあります。

どんな人生を送ってきたのかは存じ上げませんが、それなりに満足のいく生涯であってほしいなと思います。

死後の世界というものを信じているかと言われるとあるのかもしれない程度のスタンスではありますが、どうか安らかにお眠りください。

人知れず亡くなったはずのおじいさんの死をこうして消費する事が良いことなのかどうかというと微妙なところですが、この記事が誰かしらの目に触れることが私なりの弔いになればと思うばかりです。


メメント・モリ

孤独死については今尚忘れられない記憶があります。

それは自身の祖母の死です。

詳細は以下の記事に記しています。

この時の事が忘れられず、孤独死というシチュエーションだけで胸が苦しくなります。

未だに悔恨の念に駆られるばかりで、自身の愚かさに打ち拉がれてしまうのです。

私自身についても、きっとろくな死に方をしないのではと思えてなりません。


おわりに

テーマがテーマだからか終始ネガティブな記事になってしまいました。

次回はもう少し明るい記事を書ければと思います。

最期までお目通し下さった方、ありがとうございます。

また何処かでお目にかかれたら幸いです。

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