【小説】 猛犬注意

不思議な家がある。

私の自宅から最寄駅までの道中にあるその家は新しくないようだが、古さを感じさせることもない不思議な佇まいだ。

それなりの規模の敷地面積を有しており、豪邸と呼んでも差し支えのない立派な家に見える。

表札には筆記体らしき文字が踊り、その横には『猛犬注意』と印字された無機質な白地の札が添えられている。

しかし、この家の前を幾度通っても猛犬はおろか犬の姿すら見ることはなかった。

犬どころか人の気配すら感じられず、空き家か別荘なのではないかと疑ってしまう程だ。

とは言っても空き家にしては手入れが行き届き過ぎている。
雑草が生い茂ったりしているような様子もないし、ある程度清掃されていないと汚れが目立つはずだ。

仕事帰りの夜にこの家の前を通ると庭にちょっとした照明が灯っている。
全くの無人という訳ではなさそうだが、形容し難い不気味さのようなものを感じてしまう。

気にしない方が良いかもしれないが、妙に気になってしまう。

通勤路を変えて通らないようにすることもできるが、遠回りになってしまうのでその選択肢は選べない。

特に朝は一分一秒も惜しいので、遠回りをしている余裕なんてない。

そうして私は月曜〜金曜の朝晩2回、出勤がある限りは欠かさずこの家の前を通過し続けた。



ある日の朝、私はいつものように駅に続く道を歩いていた。

不思議な家の前を通過しながら、猛犬注意の掛札に見とれていた。

猛犬は本当にいるのだろうか、今はいないとしたらかつては存在したのだろうか、どんな犬種でどんな猛犬なのだろうか……。

そんな物思いに耽るあまり、周囲への注意が散漫になってしまっていた。

眼の前にいる人物の気配に気が付いた時には既に手遅れだった。

静止や回避のアクションを起こす間もなく、正面の男性にぶつかってしまった。

その衝撃で男性が手に持っていたビニール袋が手を離れ、中に詰められていた空のペットボトルがあたりに散らばってしまう。

「すみません」

私は謝罪の言葉を発しつつペットボトルを拾う体制に入る。

「いえいえ、こちらこそ」

そう返しながら男性もペットボトルを拾い始める。

大きめのゴミ袋に詰められていたからか、それなりの数のペットボトルが飛び散っていた。

拾い集めるのにも多少の時間がかかる。

ペットボトルはラベルやキャップが取り除かれ、中も水で濯がれているようだった。

きちんとした人で良かった、今日が燃えるゴミの日でなくて良かったと思いつつ無心でペットボトルを拾い集めていく。

「不注意でご迷惑をおかけしてしまい、すみませんでした」

最後の一本をごみ袋に戻しつつ改めて謝罪の言葉をかけた。

「いえいえ、こちらこそお忙しい時間にお手数かけさせてしまってすみません。お時間大丈夫ですか?」

「お心遣い、ありがとうございます。今日は少し早めに出ているので時間は大丈夫です。ちなみにご近所の方ですか?」

これも何かの縁であり、私は彼に不思議な家のことを訊いてみたいと考えていた。

ここでゴミを捨てようとしている時点で近所の人であろうと思いつつ、念のため確認の質問を投げかけたのだ。

「えぇ、すぐそこの家に住んでいますよ」

「実は前々から気になっていた事がありまして、この家に犬なんているのでしょうか?猛犬注意の札がかけられていますが、犬がいるようには見えないのが気になっていまして」

「家主の方は時々見かけるのですが、犬は私も見たことはないです。あの札は防犯対策なのかもしれませんね」

「やはりそうでしたか。何故だか妙に気になってしまっていたのでスッキリしました。ありがとうございます」

やはり犬はいないようだった。疑問が解けてスッキリした反面、呆気ない幕切れに一抹の寂しさを感じる。

心の何処かで何かしらのエピソードを期待している自分がいたのかもしれない。

この家にはそんな期待を抱かせる不思議な魅力があるように思えてならないのだ。

何もないのであればそれ以上考えても仕方あるまい。私は気持ちを切り替えて駅への歩みを再開した。



それは猛犬はいないと知った日の帰り道のことだった。

最寄駅から自宅への道中、例の不思議な家の前に一人の男性が佇んでいた。

男性はあの家を精査するように見つめている。どうやら住人ではなさそうだ。私と同じようにあの家が気になっているのだろうか。

視線に気付いたのか目があってしまった。彼は少し逡巡したような素振りを見せた後、意を決したように話しかけてきた。

「この家の方ですか?」

「いえ、ただの通りがかりです」

「そうでしたか、失礼しました」

「いえいえ」

特に会話を続けることもなく、私はその場を離れることにした。

男が何者で何故あの家をチェックしていたのか気にならないわけでは無いが、妙な怪しさを感じていた。

なんとなく関わらない方が良さそうだと思ったのだ。そういう直感は割と信用できると思っている。



残業で帰りが遅くなってしまったある日、疲れた身体を引きずるような気持ちで自宅を目指していた。

疲れのせいか足取りは重く、いつもより家が遠く感じる。

気が付くといつもの不思議な家の前だった。

深夜に差し掛かり、静まり返った住宅街に悲鳴がこだました。

その声はどこか聞き覚えがあるような響きで、音の出処はあの不思議な家のようだった。

不思議な家の前に立ち、門から中を覗き込んだ。

「化け物……助けて……」

敷地の中にいたのは先日この家を見ていた男だった。

男は虚空を見つめながらうわ言のように助けを求め続けている。何かに怯えながら後退り、逃げるような体勢を取っている。

男のただならぬ様子に釘付けになっていた私だったが、別方向からの視線を感じた。

視線の方に目を向けると年齢不詳で性別すら曖昧な人間がこちらを見ていた。

その人が男の方を指差した。

男の方に目を戻すと、彼はいつの間にか泡を吹いて気絶している。

何があったのかも分からないし、気絶した男以外の人間が何者なのかも分からない。敷地内にいる事を考慮するとこの家の住人なのだろうか。

「ここで見たことは忘れていただけますか」

住人らしき人物が氷のように冷たい声で私に語りかけてきた。




ふと気が付くと私は自分の家にいた。

不思議な家からどのように帰ったのかも思い出せないし、先程の出来事も曖昧模糊となってしまっている。

先程の出来事が本当にあったことなのかどうかすらも怪しい。

疲れて帰ってきてそのまま寝落ちてしまった可能性すらあるだろう。

先程の出来事は夢だったのかもしれない。いや、きっとそうだろう。

自身があの家を不思議に思う余り、夢に出てきてしまったに違いない。

きっと残業の疲れのせいだ。私は深く考えることをやめ、眠りに就くことにした。




明くる日、不思議な家があったはずの場所は空き地になっていた。

そこに確かにあったはずだが、今はそこには何もない。

もしかすると不思議な家そのものが私の見た夢だったのだろうか。

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