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大切なメッセージは、必ず声に乗って届けられる。

先日、「レゲエの神様」と言われるBob Marleyの伝記映画「One Love」を劇場で観てきました(日本では5月に公開予定です)。すでに世界中で様々な賛否が飛び交っているようですが、私はとても素晴らしい映画だったと思います。今回は、この映画を観て私が感じたことを少し書いてみたいと思います。

余談ですが、実は私は中学2年生の頃に初めてBob Marleyを知ってから現在に至るまで、レゲエと共に人生を歩んできたと言っても過言ではないくらいレゲエ大好き人間なのです。40代半ばを過ぎた現在でもレゲエは私の人生の大きな部分を占めているものであり、思春期以降の私の人間観を形成してきた大きな要素のひとつが紛れもなくレゲエなのです。

「One Love」「No Woman No Cry」「Lively Up Yourself」・・・Bobが人類に向けて発信した数々のメッセージは、とてもシンプルで、かつ力強く、多くの人々の心に響くものであったことは言うまでもありません。そして、死後40年以上経った現在でも、彼が遺したメッセージは生き続け、世界中で多くの人々の生きる支えとなっていることでしょう。私自身、幾度となく彼の言葉に救われたひとりです。

私がこの映画を観て強く感じたことは、Bob Marleyという人間存在の大きさ、そのカリスマ性や深い生命観もることながら、彼の歌を通して届けられたメッセージそのものの「主体性」の発見です。

一般的に歌手、とりわけシンガーソングライターは、自分の思いや主張を歌に乗せて表現します。それがメッセージとなり人々に届けられたとき、それに共感する人もいれば、さして共感しない人もいるでしょう。それは、歌い手である彼らのほうが主体であって、歌はあくまでその主体から発せられた創造物・・・に過ぎないからではないかと思います。つまりそのメッセージは、多くの場合「ユニーク」なものではあっても、「ユニバーサル」なものではないということです。

しかし、この映画を通してBobの歌を聞くと、全くその反対のような気がするのです。どういうことかというと、届けられるべきメッセージこそがまず主体としてそこに存在し、Bobはそのメッセージに選ばれた「メッセンジャー」だったのではないかということです。

例えば映画のタイトルにもなった「One Love」というメッセージも、Bob自身の中から沸き起こってきた言葉というより、「One Love」というメッセージそのものに「どうか人々に伝わってほしい、届いてほしい」という強い願い、あるいは意思がまず先にあったのではないかと思うのです。だから主体であるメッセージそのものが、どうすれば最もよく多くの人々の心に届くだろうかと思惟しゆいした末、Bob Marleyを選んだのではないかと私は感じました。つまり言葉が主体的にBobという人間を選び、突き動かしたということです。

ではなぜメッセージが人々に届くためには、言葉がただ言葉のままでは駄目だったのでしょうか?言い換えれば、なぜそこに人間の肉声の関与・・・・・が不可欠だったのでしょうか?

普段私たちは無意識に道具のように言葉を使っていますが、言葉は声として発せられた時、命を宿すのだと私は思います。だからこそOne Loveというメッセージは言葉という姿だけでなく、Bobという人間を通して「声」となることで、命を得たのです。そして、その思惑通り数多の人の胸の奥の最も深い場所に着陸し、そこにとどまり続けることで人々の生きる支えとなってきたのだと思います。

私は何だかここに仏教との類似点があるように感じました。この世でただひとり悟りを開かれたお釈迦様も、その悟りの世界を文字で残すのではなくすべて言葉で人々に語られました。また浄土系仏教の根本聖典である大無量寿経には、阿弥陀仏は南無阿弥陀仏という名号みょうごうの姿となり、人々の口から声となってとなえられることで時間的・空間的制限なく只今この瞬間も、人々を救い続けていることが説かれています。「称名念仏」という言葉がありますが、これは正にぶつが声となり称えられることで真如しんにょの世界からこの娑婆しゃば世界に生きる私たち人間に直接呼びかけておられる姿なのだと私は受け取っております。しかし私たちは、そもそも言葉にそんなはたらき・・・・があるなんて知らないので、自分が自分で主体的に念仏を称えているだけだと勘違いし、「こんな言葉ひとつでどうして人間が救われるのか」と一蹴してしまうのでしょう。究極の智慧である仏智さえも自分たちの人智の枠で捉え、限りなく小さなものにしてしまっているのです。

Bob Marleyの口から溢れ出る声となることで、多くのメッセージは命を獲得し、思い思いの響きで羽ばたいてゆき、人々の胸に降り立ったのでしょう。言葉は真理であり、真理は人間の声となることで主体的に人々をその真如の世界へ招き入れるはたらきを遂行するのだと思います。人間は時にその媒体の役目を果たし、よくその役目を全うすることで彼ら自身も真理そのものに近づいてゆくのかも知れません。私は、ドレッドロックを搔き乱して一心不乱に歌う強烈に個性的なBobの姿に、一方で、ある種の「没個性」を強く感じました。Bob本人は自分自身がスターであるとか、数々のメッセージの創造者であるなどとは全く思っていなかったはずです。私は彼の生き様、特に晩年の彼のたたずまいに、仏教でいう「無我」に近いものを感じました。

「Sometimes, the messenger has to become the message.」

これは劇中でBobの妻RitaがBobにかけた言葉です。Bobはよく自分自身の役目を理解し、生涯メッセンジャーとしての生き方を貫くことで、いつしかBob自身がメッセージの当体・・となったのだと思います。この映画を観終わったあと、私はBob Marleyというひとりの人間の上に鮮やかに展開した言葉のはたらきの不思議を改めて感じつつ、静かに感動していました。

One Love, One Heart
Let's get together and feel all right

届けられるべきメッセージは、そのメッセージを必要としているすべての人に漏れなく届けられ、その役目を完全に果たし終えるまで、いつまでも生き続けていくことでしょう。



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