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【小説】宛先不明の愛「第二話」


 窓の外で、空が赤色に染まっている。まるでワインだ。町の小さな郵便局で、パソコンのキーボードを叩く。配達報告を済ませてから、立ち上がった。奥にある更衣室に行って着替えを済ませた。制服は、疲れを吸い込んで重たくなっている。紺色のコートを着て、茶色いマフラーをしてから更衣室から出ると、人の姿がほとんどない受付を横切った。その時、青木さんが、こっちに視線を向けた。夕日が頬に当たったまま眠たそうにしている。四十歳ほどの男で、左手の薬指に指輪をしている。

「青木さんお疲れ様です」

「お疲れ様。やなもんだね。家に帰らなくちゃいけない」

「ゆっくり休めていいじゃないですか」

「一人暮らしならね。家には目つきの悪い妻と、話しっぱなしの息子がいるんだ。愚痴の一つもこぼせない」

 青木さんはそう言って、自分ではめたであろう指輪を眺めた。それから、微笑んだ。微笑んだのだ。わたしは、金縛りにあったように動けなくなった。あの手紙をみた時と同じだ。無意識に、ズボンのポケットに隠し持った手紙を、コートの上から触った。

「どうして、一人暮らしに戻らないんですか」

 呼吸が浅くなっていく。胸ぐらをつかまれたように、強くひきつけられる。わたしの目が、青木さんの口が動くのを待っている。わたしの耳が、青木さんの声を待っている。

「一緒にいたいから。四六時中幸せってわけじゃないけどね」

「一緒にいたくなくなったら?」

「ならないよ」

 青木さんは、また微笑んだ。一足す一は二だと言うみたいに、簡単に口にしてみせた。

 わたしはまた動けなくなった。静かな室内に、温かな赤い光が差し込んでいる。ほんの少しだけ、光が黒を増した時だった。入り口があいて、ベルが鳴った。

「それじゃ水希ちゃんお疲れ。届け忘れの郵便物はないね? 宛先不明のものは、ちゃんと箱に入れといて」

「大丈夫です」

「さすが」

 わたしは、頭を下げてから郵便局を出た。出るときに、おじいさんとすれ違う。背が曲がっていて、子どもみたいに身長が低い。わたしが会釈すると、おじいさんは羽毛布団みたいに温かな笑みを返してくれた。

 外に出ると、風が一気に肌を冷やしていった。マフラーを口元に寄せる。それから、歩き出した。昼間に手紙を届けるために歩いた時と、同じ道だ。誰もいない。

 誰もいない道を歩いて、誰もいない家に帰る。

 川の音がする方へ足を向かわせる。急な階段をおりて、広い国道を横切る。橋の前に人がいる。おばあさんと、小さな男の子だ。二人は手を繋いで、赤い空の下を歩いていた。

「おばあちゃん、聞いて聞いて。今日ね。好きな人ができたの」

「そうなのかい。どんな子を好きになったの?」

「えっとねえ。席が隣でね、ピーマンが嫌いでね、足が僕よりも速くてね」

「うん」

「いつも一人でいるんだけどね、僕が話しかけると、笑ってくれるんだ。そしたら、なんだか、ぽかぽかするんだよ」

 男の子は、ひまわりみたいに笑った。きっと、男の子にとっての太陽は、想い人なのだろう。おばあさんはシワだらけの顔で微笑んだ。年輪みたいだ。

 わたしがすれ違う時、おばあさんが立ち止まってこちらに頭を下げた。

「今日は冷えますね」

「もう冬ですから」

 おばあさんは白い息を吐いていた。そうして、手をしきりに擦っていた。綿の入ったような、ふっくらとした紫色の上着を着ている。それでも、寒そうだった。

 わたしは、自分のコートとマフラーを脱いで、おばあさんに着せた。

「いいのに。家はすぐそこですから」

「わたしもです。それに、ちっとも寒くはないですから」

 わたしは、白いシャツとズボンだけになった。体が一気に冷えていく。冷凍庫に入れられる水の気持ちがわかる。長くここにいると、体が震えて、おばあさんにバレそうだ。わたしは、そそくさとその場を離れて、橋を渡り始めた。

「お姉ちゃん」

 後ろから、男の子の声がした。振り返ると、顔を桃みたいに色づかせた男の子が微笑んでいた。

「ありがとう」

「いいんだよ。君も、体を冷やさないようにね」

 わたしは、うまく微笑んでいるだろうか。

「うん」

 おばあさんと、男の子は、それから帰っていった。二人の背中が段々と小さくなっていく。わたしは、一人で橋を歩いている。

 空はいつの間にか星が見えるようになっていた。星が、散りばめられている。星ですら、一人ぼっちではない。

 わたしはなるべく空を見ないように、下を向いて家まで歩いた。花さんの家が近づいてくる。人影が二つあった。

 花さんと、男だ。見たことがない顔だ。花さんよりも、頭一つ分背が高い。手紙を送っていた彼と違って、体つきも良かった。健康的な肉がついている。手紙の彼を一度だけ、見たことがあるが、枯れ枝のような人だった。今、目の前にいるのは、木の幹みたいな人だ。

 二人は、星明かりの下で、互いの柔らかな唇を触れさせた。両手で、相手の頬を包み込んでいる。息と一緒に、愛を吹き込もうとしているのだろうか。時折、甘い息をもらしていた。わたしは、ポケットの中の手紙を、手で直接触れた。痛い。

 幸せそうだ。なのに、わたしの心はちっとも温かくはならなかった。乾いた冷たい風が吹いてきて、二人は手を止めた。花さんがこちらをみた。それから、目を細めて、怪訝そうに眉をひそめた。

「なんで泣いているの?」

 右の頬にひとすじの涙がこぼれているみたいだ。涙の通った後が、ひんやりとしている。男の方が、心配そうにハンカチを取り出した。その優しさが、腹立たしかった。わたしは、何にも言わず、不器用な愛想笑いだけを二人に押し付けて、その場から逃げた。一歩ずつ、歩く速度が上がっていく。早く家に帰りたかった。息が燃えるように熱い。心が血を流しているみたいにベトベトとしている。五分も歩かないうちに、家が見えてきた。小さな古民家だ。庭には、大きな傷がついた大木が、一本だけ生えている。わたしは、乱暴に鍵を開けて中に入ると、扉を背もたれにして座り込んだ。涙が止まってくれない。

 手紙を取り出して、額につける。彼は見捨てられたのだ。彼は知っているのだろうか。手紙を読む限りじゃ、まだ別れ話にすらなっていない。きっと、彼は、花さんが忙しくて手紙を返せないと思っている。

 彼の気持ちが、わたしの心に流れ込んでくるみたいだった。あまりにもかわいそうだ。せめて、別れの手紙くらいは書いてあげればよいのに。

 わたしは、この日、一人でずっと泣いていた。

 それから一週間後のことだ。彼から花さんに宛てた手紙が届いた。だがその手紙は、雨が降ったみたいに濡れていた。


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