毒母から何をされたのか?

これが、ほんとに分からなかった。私の場合、母親から叩かれたこともなく、罵詈雑言を言われた訳でもなかった。
ひとつ、確かなことは、
両親ともに、くされ親だったということ。

母親は、良妻賢母系で、清楚で美しい人だった。
(だった、というのは、癌でなくなって、7年経つからだ)
父親は、1度妄想にかられたら、自分の妄想が正しいことを、しつこく暴力的に家族に押し付けてくる人。アルコールを飲めばそれに余計、拍車をかける。わけの分からない言い分を時に暴力的に、時に暴言で、押し付けられ
屈辱にまみれた子供時代だった。

私は子供の頃、母親が善で、父親が悪だと思い込んでいた。
いつも正義の味方がやってきて、父親を成敗してくれないか、心待ちにしていた。

そんな人が1度だけ現れたが(父の兄)おじさんが帰ったあと父は余計荒れた。
そして、はげしく憎んだ。
そんな結婚をした母の助けになろうと、緊迫した空気感のなかで子供ながらに必死だったことを覚えている。
なんせ、母親は私にとって唯一の善だったからだ。

母親に、意を決して
「離婚していいよ」と伝えた。
しかし、母親の返事は
「あんたらがいるから、離婚はできない」と泣いた。

すごく、無力感にかられたら記憶がある。その頃から、自分の存在に疑問さえ持つようになった。
私がいなければいいんだ。
そうしたら、母親は離婚できるのか。
そのやり取りのフレーズは、ずっと、頭の中でこだましながら、思春期を過ごした。
私が思春期のころ、
母親は、妹の勉強にかかりっきりで、妹の進学先や行く末ばかりを気にしていた。
私が進路のことで、親に相談したことはない。
レールに乗っかった路線へ、ところてんのようにするーっと、押し出されるように進学した。
家にいても、学校にいても普通の楽しみは無く、
高校になると私の成績も振るわず、3年になると、クラス振り分けられるので、落ちこぼれクラスの時が、まわりの期待から外れ、その時が1番楽しかった。
私は家族に期待された子ではあったが、一方的なもので、親の目線の先には、暴力的に過干渉されすぎて精神が破綻した妹しか興味が無いようだった。

私は高校卒業すると、
すぐ、家を出た。
それからあまり家には寄り付いていない。
そのことも、家族の中では裏切り者という位置になり、母親からは相当憎まれたと思う。
なんせ、母親のゴミ箱的な役割を私が担っていたからだ。
1人、私が離脱することで、3人は妙な結束を持ち、妄想的な迫害を巧妙に受けることになった。
しかし、残された家族、一人一人は、私に相談や愚痴の電話をしてきていた。
どうにかして、と
いつも言われた。

私は必死で3人の関係を良くしようと、どうにかしようとした。
完全に家族の共依存に巻き込まれていた。

が、、、結局、3人はいつの間にかまた、結束して、私を目の敵にするのだった。これは、私の妄想だろうか?実際、親も妹も、母親も父も「姉ちゃんのこと、こんなふうに言ってたよ」
とそれぞれが、言わなくてもいいような内情を暴露してきていた。

これらのやり方は、ほんとに証拠がないのだ。

次の日は、何事もないかのように、電話が掛かってくる。3人仲良くやってますよ的な。

一体何をしたいのか
それに、乗っかってた私も私だったが。その頃は、まだ20歳と少しで、私にも知識がなかった。

おおむね、妄想で暴れる父親が、悪目立ちするのだが、それを支える母親もそこにいたのだ。

結婚して帰省したとき、母親があまりに、私にまとわりついて愚痴を聞いて状態だったので、
(孫もいたのに…)
孫は無視。
父親ばかりが悪い訳ではないのではないかと、
母親に、伝えた。
母親は、あなたは、やっぱり、父親の味方なんだね、と、母は立ち上がってキッと表情を変えて無視された。

がっかりされたんだなということだけは、分かった。

その罪悪感たるや、言葉に表せないような気分だった。
なにも、役にたてない気持ち。
その頃は多少は、共依存のことを調べて知識があったので、つい出てしまった言葉だった。
言わなきゃよかった。

そんな後悔がわいてきた。
帰省のたびに、そんなことを繰り返す気持ち悪さが、私を余計実家から遠ざけていった。

私だって、甘えたい

けど、出来ない。

その後、親達は私にがっかりするけれど、懲りずに私に問題をなげかけてくる。

放っておいてほしいと思いながら、親の侵入は、ずっと続いた。親に応えていた私もわたしだが。

帰省がおわって、帰るころになると、私はいつも後ろ髪を引かれる思いであった。楽しかったね、というのが、どこにも見当たらないのだ。

孫を見せて、おわり。
あとは、自分たちの問題を投げつけるだけ。

言っておくが、母親は、変な人でもなんでもない。ほんとに完璧な人だった。
ただ、ひたすらに冷たい人だった。
妄想癖のある父親に振り回され、それを完璧に支えてきた人だった。
子供のことなど、見る余裕さえ無かったろう。

だからと言って親を許すとか、無理だろう。好きだったからこそ、私は一生懸命、子供の立場で守ろうとした。親子逆転してるよね。

が、全て空振りに、終わった。
むなしさだけが残るのである。
何をしても無駄だったと。
ずっと、私の人生に侵入し続けた人たち。
奪った人たち。
そして、私は親の精神的感情を支えた人である。
俗にいう、イネイブラーですね。
支えなくていいと、あの頃の自分に言い聞かせたい。
母親みたいな冷たい人間関係になりたくない、
それが、反対の方向に向かいました。

母親は、先に死に、父親だけ生きている。
ホームに入っているが、少しも幸せそうに見えないのが、また、それはそれで悲しくなり、怒りも湧いてくる。

つらつらと、毒親のことを書いたが

毒親たちの虐待には、見える虐待と
見えない虐待があることを知った。
はたして、どちらが、いい、とか悪いとか
優劣は付けづらいことだ。
こうして書いてみたら、
大概に酷い親たちだ。
愛されたいということが叶わない。
が、私は一生懸命、毒親にラブレターを書いている自分も自覚している。
まことに難儀なことだ。

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