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『日の名残り』

カズオ・イシグロ『日の名残り』を読んだ。

人生楽しまなくちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。脚を伸ばして、のんびりするのさ。夕方がいちばんいい。わしはそう思う。みんなに尋ねてごらんよ。夕方が一日でいちばんいい時間だって言うよ

物語の終盤にでてくるこのセリフを読むだけでも、この本を読む価値があった。

カズオイシグロといえば、ノーベル文学賞を受賞したことが記憶に新しいが、(もう2017年のことなんですね)、その作品はいままで読んだことはなかった。「わたしを離さないで」のドラマ版を見たくらい。


早速、簡単なあらすじ。

ダーリントン・ホールで執事として働いているスティーブンスは、一緒に働いていたミス・ケントンに会うために、短い旅に出る。スティーブンスは、長年ダーリントン卿に仕えてきたが、その主人は数年前に亡くなった。いまは、アメリカ人実業家のファラディ氏の所有に変わり、職務内容も変化している。時代の移り変わりを感じながら、スティーブンスは車でイギリスの田舎道を巡っていく。ざっというと、こんな感じだ。


スティーブンスは、執事という仕事にものすごく誇りを持っている。常に品格ある執事として、振る舞うことを忘れない。その徹底ぶりは他の追随を許さない。

スティーブンスのいう品格とはなにか。

みずからの職業的やり方を貫き、それに耐える能力だと言えるのではありますまいか。(中略)偉大な執事が偉大であるゆえんは、みずからの職業的なやり方に常住し、最後の最後までそこに踏みとどまれることでしょう。外部の出来事には―それがどれほど意外でも、恐ろしくても、腹立たしくても―動じません。

そして、彼にとって、ダーリントン卿こそがすべてなのだ。ダーリントン卿が気持ちよくいられるように、その意に沿えるように、それが彼の執事としての行動理念。自分の領分からは決してはみ出ない。求められることを理解し、遂行する。

ゆえに融通が利かなかったり、すれ違いが起こったりする。

冒頭にでてきたミス・ケントンは女中頭なのだが、彼女に対する態度はそっけない。スティーブンス自身、恋愛感情もあるようだが、その想いを封印している。よく屋敷に出入りしている人には、ダーリントン卿が間違ったことをしているのに、君は止めようとしない、関心がないのかといさめられる。しかし、彼にとって、ご主人様のサポートが第一であり、自分の意見を持つことなどは些末なことなのだ。ある意味、盲目的にダーリントン卿を信じている(これは、ダーリントン卿がスティーブンスの信頼にするに足る人物ということなのだが)。

読んでいる最中は、スティーブンスの言動や行動に「なんでそんなこと言うの?」「本心違うでしょ?」「頭、固いな」といいたくなる箇所もあり、ヤキモキする。

しかし、信じるということはこういうことで、小林秀雄は

信ずるということは、諸君が諸君流に信じることです。(中略)信ずるのは、僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです。
信ずるということは、責任を取ることです。僕は間違って信ずるかも知れませんよ。万人がごとく考えないのだから。僕は僕流に考えるんですから、勿論間違うこともあります。しかし、責任は取ります。それが信ずることなのです。

スティーブンスが信じていることと、周りの人が大事にしていることは違って当然なのだ。信じることは、取捨選択することだ。なにかを信じることは、なにかを捨てることにもなる。スティーブンスにとって、一流の執事であることは、自分の存在証明でもある。

そんな強い彼でも、物語の終盤で、後悔にも似た思いを吐露する場面がいくつかある。かつてひそかに恋愛感情をいだいた女性は結婚し、ダーリントン卿が亡くなってからは、もうかつてのようなモチベーションがないと、こぼす。


自分の人生は間違いだったのか。


そこで冒頭のセリフ。ベンチで隣あった老人がスティーブンスに言うのだ。

人生楽しまなくちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。脚を伸ばして、のんびりするのさ。夕方がいちばんいい。わしはそう思う。みんなに尋ねてごらんよ。夕方が一日でいちばんいい時間だって言うよ

この言葉がスティーブンスの心を軽くする。

ただこのセリフをいいなと思うだけでは充分ではない。1ページから読み進め、スティーブンスの胸の内や歩んできた人生を見ていくことで、この言葉の意味は真に重みをもってくるのだ。

私どものような人間は何か真の価値あるもののために微力を尽くそうと願い、それを試みるだけで充分であるような気がいたします。そのような試みに人生の多くを犠牲にする覚悟があり、その覚悟を実践したとすれば、結果はどうであれ、そのこと自体がみずからに誇りと満足を覚えてよい十分な理由になりましょう。

人生は思い通りにはいかないかもしれない。あのときこうしておけばと後悔するときもあるかもしれない。いや、後悔のない人生なんてないのかもしれない。しかし、スティーブンスのように自分が信じることを行い、持てる力の最大限をそこに注ぐことができれば、誰がなんといおうが、それは充実した人生といえるのではないだろうか。




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