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鶴見済さんの『「集まりたい」という人間の巨大な欲求』という記事を読んで

鶴見済さんのこの記事を読んで考えた。

たしかに、世の中のあらゆる活動は、軸となる目的にかかわらず、そもそも「集まりたい」という欲求から来ているのかもしれない。

私は、ここにもよく書くけれど、地元の吹奏楽団に所属していて、練習は毎週2回月曜と木曜の夜20から22時まで。

練習場所は私の家から車で5分だけど、往復2時間かけて来る人も何人かいるし、往復40~50分くらいの人が結構多いと思う。皆フルタイムで働いていて、毎回仕事後にやってくる。残業して遅刻しても来る。(もちろん毎回は来られない人もいるけれど。)

みんなほんとうに演奏が好きなんだなあと思っていたけど、「集まりたい」という気持ちもあるのかもしれない。もちろん楽器が・音楽が・合奏が好きだし、一人ではできない音楽だからというのもあるけれど、職場でもない家庭でもない人と会える機会もなかなか無いし、ある種の気分転換だったりもするんだと思う。

でも別に、集合しても演奏しているわけだから、メンバーとゆっくり話す時間もない。皆家庭があるし時間も遅いし、練習が終わったらサクッと帰る。そして、メンバーは40人以上いるので、必要な時は様々な角度から意見が交わされたりもする。でも、そんなことも含め、生活の中に定期的に行く場所があるということは尊いことだなあと思う。

今は「コミュニティ」という言い方が多い気がするが、かつて私がいろいろなコミュニティに所属しては抜けるということを繰り返して思うようになったのは、コミュニティとは、集まるべき明確な目的が発生したときに必要性をもってつくられ、それは会社のようなあるの種ドライさによってこそ継続できるものではないかということだ。

私が所属する楽団で考えれば、人が集まらなければ合奏はできないし、通える範囲でそこにしかないし、年10回くらい外で演奏する機会があるから、それに向けて毎週月木何時から練習というサイクルがある。誰が好きとか嫌いとか意見が合うとか合わないというような人間的な要素は、継続ということにはあまり関わってこない気がする。関わらないというスタンスで臨む人が多いと言えるのかもしれない。そして、そこに「集まりたい」し「楽しい」し、それは「貴重な場所」なんじゃないかなあと思う。

私も鶴見さんのように、世の中のあらゆるコミュニティ・グループ・団体などは、いろいろな目的があれど、そのベースには「集まりたい」という欲求があることが多いと思う。集まりたい上で、自分が持っているもの・やりたいこと・気になっていることを、シェアしたり勉強したり頑張ったりできるのだと思う。

そしてそれは、目的が明確であれば定期的に開催できるし、定期的に開催することがある意味ドライさも生み、いろいろな意見があれど、長らくそれぞれにとって心地よい環境が築ける気がする。「気が向いた時に」とか「たまに」だと継続が難しいし、それはそもそも「集まりたい」という欲求が薄いからこその事象とも言える。

これは夫婦といった単位でも似たようなことが言える気がするのだけれど、私ももっと「集まりたい」という欲求について考えてみたい。

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