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たましいはふるいことば?/もちはこび短歌(5)

文・写真●小野田光

 わたしが記憶の中で持ち運んでいる短歌、今日は穂村弘さん17年ぶりの新刊歌集からこの歌を。

スカートをまくって波の中に立ち「ふるいことばでいえばたましい」
穂村弘『水中翼船炎上中』(講談社、2018年)

 一首を記憶している歌を日々ご紹介しているが、この歌は下の句を強烈に記憶している。
 角川「短歌」2016年11月号で一読した時から、「ふるいことばでいえばたましい」はズシンときた。キュンとなった。上の句はふっ飛んでしまうレベルで大好き。どうしてそうなったのか、説明できない。とにかく、この「下の句=短歌の一部分」が頭にこびりついて離れなくなってしまったのだ。短歌を読んでいると、こういうわけのわからないレベルで、影響を受ける「短歌の一部分」に出会うことがある。
 そんな「短歌の一部分」は、頻繁に記憶の抽斗から顔を出す。わたしは「魂」という言葉を聞くと、「おっ、古い言葉だな」と思うようになってしまった。先日もテレビでラグビーの試合を観ていたら、「魂の攻撃」という実況を耳にした。画面に映っていたのは、力任せにひたすらに前進するように見える攻撃スタイルだった。古い攻撃なのだ。この戦い方は現代的なシステムではないのだ。と勝手に解釈してしまった。もう、わたしの中で「たましい」は「ふるい」のだ。
 いつから「たましい」は「ふるいことば」になったのか。おそらく現存する言葉の多くは「たましい」同様、そのうちに「ふるいことば」になってしまうのだ。「言葉」のはかなさを思う契機になるこの歌もまた、穂村さんの「言葉」でつづられている。現に上の句は、なんだかすでに古くはないか。下の句との対比の鮮やかさは失われているのではないか。(わたしはこの歌の場合、上の句に登場する人々が古めかしいほうが下の句に合うとは思っていないのだな)
 この歌を覚えてしまったことにより、わたしは古くなるという「言葉の運命」が刻み付けられた記憶を常に持ち運ぶことになったのだ。

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3月22日(金)19時から
福岡の本屋さん&カフェ「本のあるところ ajiro」で、トークイベント「『蝶は地下鉄をぬけて』ともちはこび短歌のこと」を開催していただくことになりました。
「もちはこび短歌」を10首ご紹介し、その短歌の実生活における効用などもお話しする予定です(noteではご紹介していない10首をご用意するつもりです)。お近くの方、よろしければご来場くださいませ。お会いできること、たのしみにしています。
当日は20時からの「ajiro歌会」に、わたしも参加する予定です。
お申し込み(要予約)はこちらからどうぞ。

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