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「未来にくるはずの不安」に、今どう対応するか


 物語制作を始めて4ヶ月目の私に、決断の時が訪れる。

制作過程のちょうど中間地点

 物語に手応えを感じていたので、仕事を辞めて制作に集中しようかどうしようか、悩み始めたのだ。

 自主制作なぞで安定した仕事を辞めまでするというのは、衝動的な発想にしか見えない場合もあると思うので、時間を6年前に戻して、前提から記しておく。

時は2017年末、当時の私も無職だった

 しかし夢だけはあった。まるで潰しがききそうにない分野で勉強をしようと決意していた。オンライン講座を受講するために、3年ほど費やす必要があった。仕事の片手間に取り組めると思っていたが、最終的には派遣社員としてワーク&ライフバランスで言えば4:6の割合で「ライフ」の比重の大きい生活を選んだ。

 当時の私はもうすでに30歳を踏み越えていたので、ビジネスパーソンとしての成長よりも、自己実現に賭けるというのは、その時でも勇気のいることだった。いやむしろその決断をした時には、うちひしがれて、床に倒れ伏して号泣した。妙齢の女性が持てるかもしれない、甘くキラキラした希望を投げ打ったのだ。当時に比べたら、仕事の自信も実力もついて、最低限あれば生きていけるとわかっている今の自分はどれだけ強くなったことだろう。

 2018年に派遣社員として働き始めるのと、勉強を始めるのはほぼ同時のスタートだった。傍で私はこの学びの最終的なアウトプット方法を模索し始めた。学んだら作る。入れたら出す。私はそういう人間なのだ。

 その「出す」にあたるものはなんなのか、これに本当に長い間彷徨い続けた。以下は取り組んだものを、取り組んだ順番で挙げる。

  • アプリ開発:コーディングは文字と向き合い続けるのが辛くて断念した。しかしその分野に必要な大量の用語をユーザ辞書に一括アップロードする方法を調べて実行したりと割と楽しかったし、ITの基礎知識は身についた。どんな分野でも極めるのは相当な努力が必要で、打ち込めることに注力すべきだという、当たり前の結論に達した。

  • 絵を描く:記号的すぎて、これ一択に絞るのは向いてなかった。

  • 漫画:シナリオと絵を両方こなすのが大変。しかしストーリーとダイアローグとキャラクターを考えるのが楽しいという自分の特性に気がつくことができた。

  • 純粋なストーリーテリング:いまここ

なぜ自分の中に「物語」という選択肢があったのか

 アラフォーにして物語を作り始めてから、忘れ去っていた自分のルーツを思い出してきた。

 小学生〜中学生のときにも、物語を作っていた。当時の自分はドラゴンクエストに代表されるファンタジーRPGが大好きだったので、物語といえば当然冒険ファンタジーか、思春期特有の「ここではないどこか」への憧れを綴った物語を作っていた。中二病全開の、感傷的で悲劇的な展開を考え続けては自分で震え上がったりしていた。一方では冷静に、自分の物語というか自分自身に、何かが足りないと思ってもいた。語彙とか構成力とか、そもそも経験というものが。

 悩んでいるうちに高等専門学校生になった。工業デザイン学生としての勉強も魅力的だったので、将来はデザイナーなり、長じてアートディレクターにでもなるんだろうとか漠然と思っていた(アートディレクター舐めんな)。しかし健康を害して学業は断念せざるを得ず、療養を終えると野心の矛先を上京に向けることになった。

 20代は迷いしかなかったが、何かを作りたいとは考え続けていた。しかし物語に触れるたびに、その作家の「声」に影響された。文体というよりは「声」としか言いようのないもので、既出の小説の中にあるどれかの「声」を身につけることでしか自分の言いたいことは音にならないのだろうと考えていた。

 そして30代。上京して十年以上経ち、やりたい勉強も、居心地のいい職場も、仲間も見つけ始めた私だったが、はたと気がつく。「作ってる人」が周りにほとんどいない……。自分としては「作ること」と「ホワイトカラー」的なものの境界線は曖昧だったが、そうではない人も多い。

 「作る人」と「作らない人」の間の見えない境界線は、学術界とビジネス界との間、学歴社会とドロップアウト組との間、東京と地方との間にある、透明な越え難い壁と同じように立ちはだかっている。自分は曖昧なところにいたくても、違和感がつきまとい、許されていない感覚だ。このままだと、「自分はあなた方とは違う」ということを説明するために大量のエネルギーを使って生きることになりかねない。精神的にも社会的にも孤独な人になってしまう。そもそもそんな拗らせた人格が好きではない。それならば、昔からやってきたことをやる方がいい。

「作る人として生きる」ことを決心した

 作る人としての生計が立つ前に、決心があった。今の創作はその時の決心の延長にある。

 決心はその時の自分の限界を試すものなので、いつでもそれなりの勇気がいる。しかし決心をすることがどういうことなのか、その後にどういったことを耐え忍ばなければならないのかは予見できるようになってくる。
 そして他人に対して優しくもなる。他人から得られる力はわずかなものだけれども、ギリギリの状況では小さな優しさに救われることがあるとわかっているので、優しくしてほしいから優しくする。それすなわち、割と常に痩せ我慢をしているということだ。心の中は叫び出したい不安と恐怖でいっぱいだ。だから相手も目には見えなくても今まさに厳しい状況かもしれないという思いやりが生まれてくる。自分が優しくすることで、相手は今日を生き抜くかもしれない。決心をすることで優しくなる。それだけでも意味があるような気もする。

 離職を決意した月の半ばに、モーニングノートが残っている。モーニングノートとは、朝起きてすぐに頭に湧いてくる雑多なことを取り止めもなく書き綴ったものである。私は習慣としてはモーニングノートをつけていない。そうとうモヤモヤした時でない限りは、創作の時間に充てるからだ。

 ノートの前半には、静かな時間がたくさんほしいとか、もうちょっとお金が貯まってから辞めようとか、この物語が語り尽くせるか、中断せざるを得ないタイミングが来たらどうしようとか、ごちゃごちゃと書き出しているところへ、俯瞰した自分が横槍を入れている。

 「ちょっと待て、まさに今、あなたは立ち止まっているんじゃないか? 物語を中断させられているんじゃないか?」と。

何事にも「果て」はある

 全ては変わっていく。(車輪の下、じゃないけど)
 かつてはセルフイメージを高めてくれていた仕事が、そうではなくなる時が来た。自分にとっての仕事が行き着く先、もう私はこの仕事の自分にとっての「果て」を見た。だから離れた。

 何かの決断に迷うことがあるなら、悩んでいること自体、迷っていることから離れること自体が目的にならないうちに次に進むべきだ、というのがこのテーマについての私の結論になる。

 「未来に来るはずの不安」に、今まさに不安にさせられている自分に早く気がついて、今できることをするしかない。

 決断は、決断をした時が終わりではなくて、決断したことを毎日積み重ねていくものだからだ。今の自分に見えている展望が、永遠に変わらないということは絶対にない。

数ヶ月前からの変化

 私が毎日ただただ「この物語をなんとしても書き上げたい」と思っていた時から、書き上げた現在になって変わったことを紹介して終わりにしたい。

  • 書き続けたい、と思えるようになった:当時は目の前の作品を仕上げることしか眼中になかったが、次の作品のテーマが固まってきた。

  • 筆力は確実に上がった:以前はブログやnoteで自分についてを説明する時には、先人の言葉で代弁・補強しなければ成り立たないと思っていたが、引用はしても自分の言葉で最後まで粘り強く書けるようになった。むしろ下手に引用を挟むと、流れとしての文章が分断されるので、自分の言葉に言い換える方がいいと思うまでなった。

  • 脳で考えることと、書くことがシームレスになった:考えるそばから書いてみることが身についた。書けばもう、その分作品の文字数を稼げるとわかって、ちょっとでも書き進んで後から楽をしたいという知恵が身についた。

 この文章を読んでくださった方には、今不安を抱えていたり、悩んでいたりするのかもしれない。今すぐに動き出さなければいけないとわかっていつつ、体力として、心として、経済状況としてすぐにはできない場合もあるはずだ。私もそうだった。
 でも後から振り返ってみて、「あれが心底欲しいと思っていたけど、あの時無くてよかった」と思ってもいる。お金とか状況とかは、願う人にとって、持つにふさわしくなった時に与えられるという。信じていて欲しい。私も信じている。


 次回は、長編作品の進捗管理、設定管理をする方法を書きたいと思う。


 何者でもないアラフォー女性が、35万文字の物語を完成させるためにやった全努力をマガジンにまとめています。少しでも面白いと思っていただけたら、スキ&フォローを頂けますと嬉しいです。


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