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エイリアンズ

莉穂は力いっぱい目をつぶり、引き換えに大きく口を開けている。懸命に後ろに体を傾けるので、背後に立ったみさきは腿で倒れてくる背中を押し戻している。銀のヘラを舌に押し当てられて、莉穂は小さくえづいた。粒のような歯がヘラに当たってかちっと鳴る。

「なんともありませんね」舌圧子を引っ込めると医者は言った。

 俯き加減のスイカより一回り小さな頭が不満げに揺れた。莉穂は足をぶらつかせ背もたれのない椅子の脚に時々つま先を引っかけている。

「えっ、そうなんですか?」とみさきが言う。

 思わず壁に掛かった時計を見上げると、まだ十四時を過ぎたばかりだった。今年の春小学三年生に進級した莉穂は本来なら授業を受けている時間なのだが、母親のみさきと共に病院に来ている。外来患者や看護師が行き交う待合室も、平日の今の時間帯では人がまばらだった。しかしなぜか、患者でごった返しているときよりもみさきは居心地の悪さを感じていた。

「診察前に体温を測ったときには微熱だったようですが……お昼ご飯はぜんぶ食べたんだよね?」

 医者はみさきに話している途中で前屈みになり莉穂に声をかけた。リズミカルに動く黒黒とした眉につい目がいく。莉穂は見知らぬ大人に急に距離をつめられて思わずたじろいだが、どうにか頷いて答えた。医者は目だけでみさきを見上げると、

「ご飯を食べ終えたばかりだから、それで今は一時的に熱が上がっているんだと思います。特に、悪いところはなさそうですね」

「はあ。そうですか」

 話は終わりと言わんばかりに、机に向き直ってミミズのような字でカルテを書き込みだした。医者の後ろに立っていた看護師はすでにカーテンの向こう側へ行ってしまったらしい。莉穂は頬に手を当てて口をもごもごさせている。

みさきは軽く背を押すと、子どもを椅子から立ち上がらせた。

「ありがとうございました」

 はい、どうも。と医者はこちらを見もしなかった。

莉穂が二人三脚でもするみたいに脚の脇にぴったりとくっついてくるので、みさきは歩きづらいと思った。

 会計を済ませると、莉穂は売店へ行きたいと言い出した。診察はものの五分もかからなかったし、大慌てで家へ帰ることもない。それで請われるがまま、売店に立ち寄った。

 病院の売店のつくりは、みさきが子どもだった頃とほとんど変わっていない。LEDに付け替えられていない蛍光灯の明かりは周囲の影を濃くし、紙パック入りのジュースや牛乳が並ぶ冷蔵庫はブーンという低いモーター音を響かせていた。足元に平積みされた雑誌は、表紙の端がすべて捲りかえっている。

 自分が子どもだった時と変わらない商品のラインナップで、みさきはつい賞味期限まで切れていそうだな、と思った。彼女の心配を他所に莉穂はせわしなく首をふり、棚の商品に目を奪われている。

「莉穂。ほら、ランドセル」

「うん」

 みさきは診察の間持ってやっていたランドセルを莉穂に背負わせる。コートを着せてもらうみたいに、莉穂は背中を向けるとランドセルのベルトに手を通した。

「あんたのランドセルずいぶん軽いのね」

「だって、教科書は全部机のなかに置いてきたもの」

 通りで手ごたえがないわけだ。やわらかく長い髪が、ランドセルの金具に絡まりそうだったのでみさきは指でよけた。

「えーびっくり。じゃあ、何が入ってるわけ?」

「えっとね」莉穂はその場でジャンプしてランドセルを揺すり中身を探った。「筆箱かな」。

 またしてもみさきは「ええー」と感嘆したあと、声をあげて笑った。ためらいの無さが小気味よかったからだが、すぐに不安にもなった。莉穂は学校の成績があまり良くない。

彼女は叱ることが苦手だった。これまでみさきはほとんど叱られる側だったから、一体どういった顔で子どもを叱って良いのかわからない。いつも自分が間違っていたし、叱られるのも、もっともだと思っていたから怒りを感じることはそれほど多くなかった。

みさきは、莉穂の成績が悪くとも、勉強道具一式を学校に置いてこようと構わなかった。莉穂が困っていないのなら別に良いんじゃないかと考えていた。けれど、彼女の夫の悟は莉穂が授業についていけなくなることを不安がっていたし、確かに莉穂は周りの子どもたちと並べれば劣っているように見えるのだった。無責任だと遠まわしに詰られもした。

でも、とみさきは思う。でも私は叱ることをうまく出来ない。そのことを悟も周りの人間もわかっているのに、なぜその役割がよりにもよって私にまわってくるのだろう。自分よりよっぽど、うまくやれる人はいるのに、その誰もみさきの代わりをしてはくれなかった。

「でもさ、莉穂。宿題をやらないといけないでしょ? 教科書置いてきちゃ駄目じゃない」

台本を読んでるみたいに気のない声だった。どうにも白々しくって、ごっこ遊びにしか思えない。莉穂はなぜか誇らしげに、にやついていた。

 病院を出ると、莉穂はみさきの手を握る。桜が散ってしばらく経つが、曇り空ではまだ肌寒さを感じる季節だ。自分より一回り小さな手は、みさきのものよりはるかに体温が高くやわらかく湿っていた。

「莉穂」

 みさきは何度もよろめいた。莉穂は彼女の手を取ったまま、飛び跳ねたり、歩幅を急に狭めたり大股で歩いたりと落着きがない。買い与えたチョコレートは手でしっかり持ったままで、熱でゆるくなってしまうのではないかと思った。黄色の箱に入った、4種類のフルーツ味のチョコレートだ。

落着きなさい、と宥めるか、チョコレートはお母さんが持っていようか? と聞くか迷う。莉穂。

「どうして嘘をつくの?」

 我ながら笑ってしまうぐらい情けない声だった。

 人を叱るのが嫌いなのは、いつのまにか自分の出来なさを詰っているから。誰といても、誰かの目に映っている自分をみていた。そういう時、みさきは自分が孤独だと思う。そして嫌気がさしていた。

莉穂は今日までに一つも後ろめたいようなことがないみたいな躊躇いのなさで、みさきを見上げる。

「うそって?」

大きな丸い目が、こぼれ落ちそうだった。薄く開いた口の奥で、ミニチュアみたいな舌が呼吸のたびに膨らんでいる。主人の命令を聞き取れなかった賢い犬のようだった。

「……お腹が痛いなんて、保健室に行って。べつに、お腹は痛くなかったんでしょう?」

莉穂が仮病を使って学校を早退してきたのは、今回が初めてではなかった。一度目は本当に具合が悪くて早退してきたのかもしれない。けれどもう、今となっては月に数回、繰り返し学校を途中で帰ってくるようになったのだ。お腹が痛い、頭が痛い、具合が悪い、と言って。

「うん」悪びれる様子もない。みさきは自分が間違っているような気になってくる。

「学校、いやなの? いじめられてるの?」

 ますます不思議そうな顔で莉穂は母親を見上げた。「いじめられてないよ」。莉穂は毎朝元気に家を出ていくし、学校から帰ってくるとその日友だちと何をして遊んだかみさきに教えてくれる。学校へ向かうのを嫌がる様子は、ほとんど見たことがなかった。

「お母さん」

「ん?」

「どうして病院に来たの?」

素足で心臓を踏みつけられたみたいに、体が痺れて何も考えられなくなる。

「……莉穂が、お腹が痛いって言ったからでしょう……」

 口をへの字に曲げて、やっとのことでそう言った。いじめられているみたいだ。こんな小さな子どもに。自分の娘に。

「莉穂、お腹痛くなんかないよ」わかってるでしょ、とでも言いたげだった。

子どもの頃、みさきは母親がなんでもわかっているように見えた。傘を持っていきなさい、と言えば必ず雨が降ったし、どうしてみさきが不機嫌なのか本人よりも知っていた。なのに、どうして私はそうじゃないのだろう。みさきはふと、自分の胸が軋むほど脈打っているのを感じた。何をどうしたら正しいのか、いつかの頃からずっとわからない。

車のキーを取り出して、運転をして莉穂を連れて家へ帰る。そのことが、なんだか未踏の地にでも向かうみたいに途方もないことで、億劫に感じた。

「お母さん」

「……なに?」私はお母さんじゃない、と思った。

 たばこ、と莉穂は言った。たばこを吸ってもいいよ。舌ったらずぶった言い方だった。

「病院では吸っちゃだめだから、公園にいこう」

莉穂はみさきの手を引っぱった。道路の向こう側の、狭いが芝の生えた公園を指さす。主人を見上げる犬のように目を光らせて、面倒をみたくて落ち着かない姉のように手をひく。

「また看護師さんに怒られちゃうから。ね」

以前にも早退してきた莉穂を連れて病院へ来た時、みさきは敷地内で煙草を吸おうとして病院スタッフにとめられた。あの時も猛烈に緊張していて、煙草を吸いたくてたまらなかったのだ。今いる場所が病院だってことはあの瞬間抜け落ちていた。すみません、とどぎまぎ謝りながら、潰れるのも構わずポケットに煙草を押し込んだ。

よく覚えているなあ、とみさきは感動してしまう。

手足のように、私の胸にくっついていたのに、私の体の一部だったのに、もうこの子の頭の中には莉穂がきちんといるのだ。小さくて汗っぽい手の力は懸命で、とても弱かった。

莉穂は時々、みさきに煙草を吸ってみたら、と言った。

二人のほかには誰もいない場所でも、莉穂はなぜか耳を寄せてひそひそと吹き込む。お母さん。お母さん、たばこを吸ってみたら。大人ぶった真面目な顔で、なぜか少し嬉しそうに。

さすがに莉穂を妊娠している間は禁煙していた。子どもの前で吸うことを悟が嫌がるので、かなり控えていたが半年前に単身赴任で出て行ってから、みさきが煙草を吸う量はいくらか増した。

それでも台所の換気扇の下や、ベランダに出てこそこそと吸っているのに、いつの間にか莉穂はいる。帰ってきてランドセルも降ろさないうちに、外に立っているみさきに気づく。リビングの窓越しに目が合うたびに、みさきはどきどきする。あの一心に見つめる目つきは大人にはちょっとできない芸当だ。周りの大人たちのように咎めたり、非難する色はない。動物に近い、ただ観察しているだけの目。血の通った真っ赤な頬で、人形のように静かな顔をしている。一人で鏡を覗き込んでいるときの、内側の表情だ。

 病院が見える公園の、小高い丘の芝の上にみさきは座っていた。

時々、煙草の煙を深く吸いこむ。煙草は何も考えずにいられる手段だった。子どもの頃は意識したことがなかったはずなのに、今はもう煙草以外の方法で、どうやって緊張を解くのかわからない。

珈琲によく似た燻した匂い、深く長い呼吸がみさきを安心させ、均してくれる。話すのも聞くのも得意じゃなかった。言葉の持つ意味以外のものをみさきは感じ取ることができない。だから大抵困惑する。

水場にしゃがみこんでいた莉穂が、振り返ってこちらを見ている。三本目の煙草に火をつけたばかりだった。走り寄ってきて、芝に投げていたランドセルを脇へどけるとみさきの隣に腰を下ろした。

「何見てたの?」

「アメンボ。すごく大きかった」

「莉穂」

「ん?」

「お母さんって、だらしない?」

 みさきは膝を抱えて、莉穂の顔を覗き込んだ。血管の浮き出ていない、水から引き揚げてきたばかりのようにつややかな瞳をしていた。

「だらしない?」

 表情の抜け落ちた顔で莉穂は母親を見つめ返した。言葉の意味にもまだたどり着けていないようだった。やっぱりなんでもない。みさきはそう言って笑いかけた。致命的にくだらないことだった。そのことに口にするまで気づけない。彼女が傷つくとき、みさきは泥のついた靴で自分の手を思い切り踏み抜かれたように感じる。

 莉穂は、瞬きの少ない目でみさきを見上げていたが、やがて今日買った黄色の箱のチョコレートを取り出した。すでに何粒が食べた後のようだった。

「何味が好きなの?」みさきは尋ねた。

「莉穂はね、パイナップル味が一番すき」

「へえ、パイナップル味? いちごやバナナもあるのに」

みさきはその味をあまり好きではなかった。まさになんとか味風、という風味がするから。莉穂は丸い爪がはりついた指で自分の口にチョコレートを含んだあと、みさきにも一粒差し出す。距離が近すぎて唇にちょっと押し当てられた。

「……ありがとう」

 莉穂の指からチョコレートを食べた。指先から青い草の匂いがする。

風向きが変わって煙が揺れた。みさきは指の間に挟んでいた煙草を湿った土の上で押し潰す。ひしゃげた吸い殻をジーンズのポケットに押し込む。莉穂がくれたチョコレートはやはりパイナップル味だった。へんな味。


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