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ありがとう、お疲れ様… あの旅立ちにさよなら… 新しい自分に生まれ変わりたい、2024年春


もう…

何千回、何万回、
ありがとうを言っても
足りない…

これまでの 物品整理のなかで、
最も つらい別れ、
実行することにした

ありがとうとともに、
お疲れ様だったね

フィッティングすれば
まだ 入るの!
四十年近くは
これを着用できる体型を、
少しは意識しつつ 維持してきたからね
でも…
いつまでも ぐずぐずした気持ちでいるのは
嫌だ
ぐずぐずすれぱするほど
未練がつのるだけ

…演歌の 歌詞みたいだね…

去年の秋 
約五十年ぶりで 母と見た
ふるさとの海を
再びupして お別れだ

さきほどの二枚は
三十七年前の四月一日、
札幌の 某大学の入学式で
着たスーツ
大学を卒業後 だいぶ経って、
社会福祉系専門学校教員として
教壇に立つようになってからも
ローテーションやコーディネート、
いろいろと 工夫しながら
自分をふるい立たせ、
力づけてくれたスーツ

大学合格を
前年のうちに決めて、
その年のうち?
それとも 年が明けてからだったっけ?
いつも 服を買っていたお店で
母が 合格祝いに買ってくれた

いまは Eオン
でも 当時は
“ファミリーデパート“という通称で
Nチイ系列だったお店で

モユルリ島が見える風景、2023年9月30日の朝

あのスーツを着て、
入学式、出席したんだよね

チャペルに
ぎゅうぎゅう詰め
新入生も その家族も
こじんまりとしたチャペルに ぎゅうぎゅう詰め
当時は 文学部に属していた
英文学科と社会福祉学科、
一学部 二学科体制だった
両学科あわせて
三百人近い新入生だったのかな…
何がなんだかわからないうちに
式は 終わった

根室から、はるばる
きてくれたね
お母さんと弟と
ふたりで

僕の 大学入学のときを見たいということ、
それと同じくらい、
国鉄からJRへの移行を
根室から札幌を行き来することで
体験したかったというのが あったんだよね
根室からの行きは 国鉄
札幌からの帰りは JR
当時の僕の住まいから 大学までは
一緒だったけど、
チャペルに入ってからは
お互い どこにいるのか
わからなくなるほどだったね
でも
“入学式が終わったら、
わたしたち 根室に帰るからね、
元気でね“って
あらかじめ 声かけてくれてたね


式のあと 新入生は
別室で ごくごく簡単な
オリエンテーションがあって、
それを終えて…

ごはん どうしたのか 覚えていないけど
帰宅した時間帯は 昼
…したら…

ネピアティッシュの ボックスのすみ?
それに加えて 一筆箋かなにかにも
あったのかな…?

“あきら、
がんばってね
おかあさん、先に
根室に帰るからね“って
メッセージが書かれてあったの

当時…

そんな気持ち…

はじめてだった…

これが
せつなさというものか…

やっと そこで
“ああ、根室で
家族四人で暮らしていたこと、
あたりまえではなくなったんだ、
これから 自分は
札幌で
ひとりで 頑張っていかなけれぱ
ならないんだ
母がいてあたりまえ、
弟がいてあたりまえの毎日では
なくなったんだ…“と感じはじめて
鼻から目のあたりが
つーんとくるような感覚、
一気にきたの

自分でも どうしようもないほど、
さびしくなった

一生 とどめておきたい このシーン

でもね…

涙 止めた
流さなかったの

ほら、
初代スケバン刑事をお務めになった
あの方も、
四十年近く経ったいまでも
時に 歌ってくれるでしょう…

…でも もっと
かなしい瞬間に
涙はとって
おきたいの… って…

あの時 思い切り泣いていれぱ
かえって よかったかもしれないね
でも、あそこで泣いたら、
涙がひとしずくでもこぼれてしまったら、
大学生活、
やっていけなそうに思えたの
涙の分だけ、
やり遂げるパワーを
自分で削いでしまうような気がして…
ひとりきりの部屋で
涙と、
さびしさ、せつなさと闘った

そのとき、
スーツ 着たままだったろうか、
それとも 脱いで
着替えたあとだったろうか

 

あの時の札幌、
例年になく 
積雪、多かったね
三月下旬でも 
短靴にはふさわしくない、
長靴がふさわしいようなくらいだった
入学式当日も
四月一日とはいえ
綿のように降ってくる 雪
路面は びちゃびちゃ
一応 ローファーで着たけど
若干積もっていたので
べちゃっ!

…でも 一週間くらいで
とけてなくなっていたかな…
四月、五月でも
雪が降るのを 数えきれないほど
体験してきた
まして 夏でも
ストーブを焚かなければ
やっていられないくらいの寒さの地域で
生まれ育ってきた身

そんな思い出も
しみついていたスーツ、
社会福祉系専門学校教員になってからも
知らず知らずのうちに身につけながら
日々を送っていたの

でも
実家に帰っても
もう 出番はないだろう
実家にもっていくなんて
考えられもしない
実家で 衣装ケースのこやしになるなんて
とんでもないしね

実際、
この十五年くらい
出番は 全くなかった

…ぷっ!
言うまでもないけど、
自分は タレントじゃないからね!
俳優じゃないからね!
ビッグな俳優さん、
歌手の方みたいに
“…記念館“でもオープンさせて、
“あきらが 大学入学式の際に
着たスーツ“とか、
“あきらが …役でテレビドラマ出演時、
着ていた衣装“だとか、
そんなことになるわけ、
みじんもないでしょ!

なら、
さよなら!

…と 綴っているうちに…

燃やせるごみの日の きょう…

持っていってもらえた!

本当に さようなら!

実は
本格的にひとり暮らしを始めたのは
その年の 11月、
札幌にきてからの 
はじめの八ヶ月は
大学まで 徒歩で10分とかからない、
長屋の下宿で
暮らしていた

そこに あらかじめ
母と弟がきてくれて
夜 母と弟と僕と
川の字になって
三人で寝たね!
根室では できないことができて、
何より 母と弟が
札幌にきてくれたことのうれしさのあまり、
夜 もう寝なきゃならないっていうのに
ハイテンションになって、
弟とふたりで
当時はやっていた とんねるずの
「嵐のマッチョマン」の一部、
何回も 何回も歌って…
しまいに
おかあさんに
“いい加減にしなさい!“って
叱られたほど…

あの イントロの
“…マッチョマ~ン…“ってところ、
数えきれないほど 繰り返したね…

でも、あのときの家族のかたちにも
とうに さよなら…

根室にいた頃…

しあわせだった…

つらいことも
個人的には
たくさんあったけど…

生まれてからの八年、
小学二年生を終えて
千歳に引っ越すまでの間と、
中学二年の二学期から
高校を卒業するまでの
四年七ヶ月、
さらには 最初で最後の 
大学時代の夏休みを過ごせた
根室での日々が
いちばん しあわせだったかもしれない

その 最もしあわせであったろう日々を
証明していたスーツに
ついさきほど、
本当に 別れを告げた

ありがとう…

仕事柄 スーツを着なければならないこと、
たくさんあったけど、
最も 自分を引き立てて
輝かせてくれたスーツだったと言える

でも
ブレザーの肘のあたり、
膝のあたり、
テカリも結構あった、
そんなの 恥ずかしいしね

あと…

スーツとは別に…

弟は
中学校の春休み期間中だったけど、
おかあさんは
お仕事 お休みしてまで
札幌にきてくれて
改めて ありがとうね

以前にも どれかの記事で
書いたことがあったかと思うけど、
おかあさん キャリアアップのために
職場からいったん離れて
根室から 空知管内の学校に
通っていたとき、
卒業式に…

おかあさんの おかあさん、
僕の まごばあちゃん、
根室からはるばる
来てくれたんだってね!
根室本線で!
うちらにとってみれば
石勝線ができても
根室本線、決して忘れられないよね
その 根室本線も
2016年8月の豪雨の影響で
今月いっぱいで
一部区間が 廃線になる
まさか そんな日がくるなんてね
そんなご時世でもあるだけに、
せつなくなるね…

何より、
石勝線経由だろうが 
根室本線まわりでずっと、ではなかろうが
自分が 母親にしてもらえたことを
自分の子どもにも してあげたい…

そんな思いが
一番だったのかもしれないね、
子どもの自分から
こんなこと、述べるのも何だけど…

式の真っ最中
お互い どこにいるのかわからないほどの
混雑だったけど
離れたところからでも
弟とふたりで 見てくれてたよね、
きっと
おかあさんが選んで
買ってくれたスーツ姿の 僕のこと

…あのとき
僕 18歳
おかあさん around50
まだまだ 家族のストーリーに
長い長いシナリオが
用意されていた
でも あれから三十七年、
もう これから用意されているシナリオは
当時とは 比べ物にならないほど
短いだろう、
述べるまでもないだろう

一秒でも長く
素敵な時、過ごそう
素敵な思い出、つくって残そう
そのためにも
自分は
まだまだ さっぱりできること、
さっぱりさせよう
素敵な時を
より 素敵にさせるために




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