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宮崎県民の最強(笑)勉強法 「宅習」

突然だが、皆さんは「宅習」をご存じだろうか。

宮崎県民なら誰しも経験したことあるだろうし、経験していなくても必ず意味を知っているはずだ。

これを県外の人に説明するのは難しいが、「自学ノート」といえば伝わるだろうか。簡単にいうと、授業で出される宿題とは別にその日習ったことの復習や苦手な内容を学びなおしノートにまとめる課題のことだ。1日1ページを目安に毎日課される宿題である。おもに小・中学校で取り組まれている。

私も宅習をみっちりこなして育ってきており、宮崎県だけの取り組みと知ったときは驚きを隠せなかったことを今でも覚えている。

基本的にノートの内容に指定がないため、家庭学習においても主体的に学習することが期待できるものだ。

学校の思い出や学校でしか体験できないものは、ある種懐かしさを覚えるものだ。修学旅行などの学校行事、チョークのような教具までもが懐かしいと思えるように、宮崎県民も宅習と聞いて学生時代を懐かしむ人は多い。



今回は、他県の教育学生や先生に宅習をおすすめしたいのではない。この宅習の学習効果に疑問を投げかける現場の声が上がっているということだ。

理由はいくつか挙げられる。私が考えるに3つに分類される。


1.宅習が形骸化している

自主的な学習を目的としたであろう宅習は、なぜか提出義務がある。登校したらすぐ提出してチェックを受ける。教科の宿題があるのに、だ。こうなると宅習がめんどくさいと思う子がすることは決まっている。埋めるだけの宅習や前日と同じ内容を書き写す作業ゲーになる。

学校によっては、宅習を絶対的な学習方法に位置付けるあまり「隅から隅まで埋めることが良い」と指導してしまい、「学習」から「埋める」ことに目的がすり替わっていることもある。

あくまで主観だが、素直に宅習に取り組むとおよそ30分かかる。埋めるのに必死になれば1時間くらいかかる。

これが作業ゲーになると、5分や10分くらいで終わってしまう。提出するために、学びのない作業をしている。


2.低学力層には苦痛であること

低学力の子がよく言うのは

何が分からないかが分からない

復習と言われても、何をすればいいのか分からない

まぁ確かに。よくよく考えれば自分の弱点を見つけ勉強することや、その日受けた授業を要約してまとめるのって、そう簡単にできることではない。無理な子には苦痛でしかない。

まとめる事が得意な人には、宅習は最高の勉強ツールといえる。


3.先生のチェック作業が大変

そもそも、宅習に疑問を投げかけるきっかけは、中学校教員のオーバーワークにある。特に時間外勤務の多さ定時に退庁できるわけない仕組みがたくさんある。部活動というボランティア業務、生徒の登校と教職員の登庁の時刻がほぼ同じとかいうスーパー意味不明スケジュール。そんな仕組みがあるとわかっていながら「早く帰るよう意識しなさい」とか命令するのサイコパスみがあるぞ。

おぉっと、こんなん言うと教員志望者がどんどん減ってしまうな。いかに教員になりたくなかったかバレてしまうな。

ま、激務の業務内容に着目して「提出物のチェック」という作業が無駄じゃね?ってなったわけだ。教員の多忙な業務で1記事書けちゃうくらい語りたいんだが、これくらいにしておく。

毎日、ほぼ全員がノートに勉強してきたものを1個1個チェックしないといけない。普通に考えたら恐ろしい。


悪いことだけではなくて、宅習のメリットもある。たくさん考えられるが、一番大きいメリットは学習習慣が身につくことだろう。自分で学習するという習慣を子供のうちに身につけておくと、やがて将来の仕事につながるだろう。あと、高学力層(宿題が簡単すぎてつまらない生徒)には基礎的な知識技能はあるので、主体的に学習するステップに進んだほうがいい。

宅習がなくても、学習習慣が身についている人がいる。そんな人はもういらないっていうのがこの段階で言える事ですな。


なんで令和になって神格化されていた宅習制度が変わろうとしているのか。それは、子どもを取り巻く環境の変化が考えられる。その中でも特に影響があるものを3つ紹介しておく。


1.学習塾が増えた

私が中学生のころ、知ってた学習塾なんて近くに3,4個くらいしかなく、ハイレベルな塾は親の送迎で校区外まで行かないと通えない状況だった。しかし、今は学校の近くを車で通ればいくつも塾が見つかる。塾も学力を上げるために必死だから宿題を課す。学校の宿題と塾の宿題のダブルワークをこなしているわけだ。


2.いまやスマホ・タブレットで勉強する時代

2020年はギガスクール元年といわれている。文科省が大金をはたいて、一人一台のタブレット配布と高速ネットワークの配備を進めた。タブレットを用いて学習をする時代がやってきたのだ。10年おせーわ。それはさておき、今の子供たちは生まれた時からスマホやタブレットがある世代。当然、家庭学習にも利用する。そう、オンライン授業勉強系YouTuberの動画を見て勉強するのだ。分かりやすさ、手軽さ、コスパを考えると圧倒的に宅習より有効である。


3.特別な支援を要する生徒の増加

今年度から、特別支援学級の担任をしている。その立場から言わせてもらうと、個に応じた支援や指導をしないと教育の保証は難しい。これは通常学級に在籍している生徒にたくさん潜んでいる。

先ほど紹介したギガスクール構想では、「個別最適化」がキーワードになっている。全員が同じ学習をしても効果が出る人は少ないよっていうことだ。

宅習をするには、どの教科を取り組むか自分で決めて、書き方(構成)を考え、ノートに文字を書き続ける指や手首の体力が必要だ。どれか一つでも苦手とする場合、毎日苦痛を味わうことになる。


じゃあ宅習どうしよっかという話だが、私の考えは

提出を義務づけない

宿題として宅習をするのであれば、内容を細かく決めておく

の2つだ。後者について補足しておく。


話がそれるが、高校生のとき、特に進学校では模試の間違えた問題を解きなおしてノートにまとめるみたいなことをやっていたと思う。私の高校では「ミステイクノート」と呼んでいた。

これを中学校にそのまま使えばいいんじゃなかろうか。特に3年生になれば、学力診断テストのような難易度の高いテストがある。ミステイクとして宅習ノートにまとめれば、ただ書き写すより数倍効果がある。

こんな感じで宅習を「授業の復習」「参考書で苦手分野を学びなおし(まとめる)」「ミステイク」と目的をもって取り組めばいいんじゃないだろうか。新たな使い方があれば、それを採用していけばよい。

ここで肝心なのは、どの目的で宅習をするか生徒と話し合い、最終決定を生徒にさせることだ。教師主導で決めないことが大事だ。

ほしいゲームを買ってもらえたら、そのゲームに熱中するのと同じ原理だ。生徒が決めた学習方法でやらせてみる。ダメだったら、内容を変えてみる。思い通りにいかないことを経験できるし、生徒に能力がないのではなく方法が生徒に合っていなかったから方法を変えてもう一回チャレンジしてみるというアプローチをとり、自尊心を傷つけないようにすることもできる。



これを見た宮崎県で働く教員には、あらためて「宅習」の存在意義を考えなおしてほしい。もちろん私の担任する特別支援学級の生徒は宅習をしていない。宅習が初耳の読者は今回の内容はさっぱりだと思うので、節々に出てきた教育事情や私の見解から、家庭教育や学力向上に関して自分の考えを見つめなおす機会にしてほしい。


最近、書店に行くと自然と哲学コーナーに足を運んでしまう。一人で考え事をしてる昔のおっさんたちと、最近ずっと物思いにふけることの多い自分を重ねてしまうからだろうか。それぞれのテーマに、頭のよさそうなおっさん達が真面目にいろんな考えを主張をしているのがシュールで面白い。見物する感じで哲学を見てたら、いつのまにかエセ哲学者になってたりしてね。けっこう教養本みたいな読みやすい本が多いので、人生のヒントを見つけるためにも哲学コーナー行ってみるといいっすよ。ほなまた。



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