見出し画像

はしのはなし 日本橋 ─獅子の阿吽のふしぎ─

前回は各地に残る明治生まれの隠れた名橋たちについてお話ししましたが、今回は同じ明治生まれでも隠しようのない唯一無二の橋、日本橋のお話です。実際には日本橋という名前の橋は数本あるので唯一無二ではありませんが…今回は一番有名であろう東京日本橋のお話です。日本橋といったら大阪日本橋だろうという方はごめんなさい。
 なお最初にお断りしておきますが、今回の記事で『ふしぎ』に対する結論は出ません。何も分からないのに「いかがでしたか?」とか言うブログみたいですね。でも橋のデザインと文脈を読む楽しさは伝わる記事かと思うのでお付き合いいただけると嬉しいです。


日本橋とはなにものか

皆さん実際に見た事は無くても一度は名前を聞いたことがあると思う日本橋。まずはその生い立ちを見てみましょう。

誰が日本橋と呼んだ?

 初代日本橋は慶長8年(1603年)、江戸幕府の開府に伴う工事の際に生まれたとされています。(※1) そんな由緒ある日本橋ですが、実は架橋にさしあたって公に「この橋は日本橋である」と命名された記録がなく、いつの間にか人々の間で日本橋と呼ばれるようになった経緯を持っています。その為『日本橋』という名の由来も確たるものは無く「街道の起点である為」というそれらしい説もあれば「かつて二本の木を渡した木橋だったから二本橋だ」という冗談めいた話まで生まれる始末です。『日本』という立派な名前を背負う橋の生い立ちがこうもあやふやというのも面白いものですね。

日本橋と日本橋川

 日本橋が架かっているのは後楽園付近で神田川から枝分かれして隅田川に注ぐ「日本橋川」です。橋の名前が川の名前になっていて少しややこしいですね。これは日本橋川が江戸の開発によって生まれ、姿を変え続けてきた運河である事にも関係があると思われます。今では戦後の埋め立てによって一本の川となっていますが、江戸時代の地図を見てみると江戸城の外堀と隅田川を繋ぐ運河網が存在しており、現在の日本橋川はそのネットワークの一部であることが分かります。

地理院地図Vecterにて淡色地図から高速道路を非表示にしたものを時計回りに90°回転
(〇印および日本橋の表記は筆者による追記)
武州豊嶋郡江戸庄図 寛永9年(1632)
(東京都立図書館『大江戸データベース』より引用)
https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5389
(〇印および日本橋の表記は筆者による追記)

 明治20年頃の内務省作成の地図には既に「日本橋川」という名前が確認できますが、現在の日本橋が架けられた折に発行された『開橋記念 日本橋志』(明治45年)には「日本橋川と云ふ名称は比較的新しきものであって、一般に古は江戸川と称したのである」と記されています。古い本ですので現代の研究との食い違いもあるかもしれませんが、日本橋川が人々の生活の中で様々な姿を見せ、様々な名前で呼ばれてきた事を察することができます。

歴代の日本橋

 上の地図でも分かる通り、日本橋は江戸城内へ繋がる堀(道三堀)と隅田川を直結する運河の上に位置し、また市街地に張り巡らされた水路や東京湾の舟運の結節点でもありました。そして陸上では五街道の起点となっており、各地の人や物品が集う日本のターミナルとも言える橋でした。江戸時代の日本橋は同時期の他の橋と同様、浮世絵に出てくるような木造橋でした。当然木は痛みますので架け替えを繰り返しながら明治維新を迎えます。
 はじめて日本橋の姿が大きく変わったのが明治5年、これまでの日本式の木造橋から西洋式の木造橋(方杖橋)となりました。トラス型の高欄や歩車の分離、街灯など木造でありながら欧米の影響も伺える、当時の時代性を色濃く反映した橋と言えます。

生まれ変わった日本橋

日本橋の袂には架設に携わった人々の名前が記されています。
皆さんが知っている人の名前もあるかも。

 そして明治44年、現在私たちが目にしている石造の日本橋が誕生します。開通の折には地元有志により『日本橋記念誌』および『開橋記念 日本橋志』という二冊の本が発行されています。新生日本橋に対する地域の人々の思い入れの強さがうかがえますね。これらの本には架橋に係った技術者や大隈重信、渋沢栄一といった著名人の寄稿もあり非常に参考となりますので、この二冊の力も借りながら日本橋について更に調べてみましょう。

近代東京に相応しい橋を

 西洋式の木造橋となった先代の日本橋でしたが、老朽化と交通量増大への対応から、明治30年代には架け替えの議論が始まっていました。そして明治39年度より架け替えの計画が本格始動しましたが、ここで注目されるのは橋のデザインに対する注目度が高かった点です。太田道灌と家康公の像を建ててはどうかと言ったり、全体を黄金にしてしまおうという案まで上がりました。これは笑い話のようですが、裏を返せばそれまでの日本橋に対する不満の表れでもありました。近代化の進む東京の街中で、西洋式とはいえシンプルな木造の日本橋は不釣り合いなものと映っていたようで、『東京へやってきた人が日本橋を渡りながら「日本橋はどこか?」と尋ねて来た』という冗談さえ生まれています。
 そういった問題意識の上で行われた議論の結果、最終的に決定されたのが石造アーチ橋でした。この決定においても耐久性に加え美観を考慮したと設計を手掛けた米本晋一は記しています。

夜は首都高からのトップライトでその造形がよく分かります

「日本橋らしさ」のデザイン

 「デザインに拘った」というだけあり、日本橋を見てみると非常に装飾的であることが分かります。装飾の設計にも米元と彼の上司である日下部辨二郎(くさかべ べんじろう)ら東京市の橋梁設計技師たちの工夫があり、従来土木技師が細部のデザインまで手掛けるのが一般的であった橋の設計において、建築家との協業によって街頭や高欄などの細部のデザインを詰めていくという手法がとられました。ここで白羽の矢が立ったのは日本各地で銀行や公共建築の設計も手掛けていた建築家 妻木頼黄(つまき よりなか) でした。(※2) 妻木らは街道に植えられた松や榎といった日本橋の持つ歴史的な文脈を装飾のモチーフとしながら、西洋的な造形表現を行う事によって「日本橋らしさ」のデザインを形にしていきました。

東京を見守る獣たち

 日本橋のデザインにおいて西洋的な造形と日本的な文化モチーフの意匠の融合を試みたことは先ほど述べた通りですが、橋の両端と中央に鎮座する獅子や麒麟像も例外ではありません。
 獅子に関して妻木は「神社の戎守の臣として置かれたる狛犬に則り」「是れ東京市を守護すると共に市の威厳を表彰せんとする」と述べており、麒麟については「王者至仁なるときは則ち出ず」「仁を含み義を懐き」「生蟲を履まず。生草を折らず」「明治の聖代に架設せることを記念し、及東京市の繁栄を祝福するには、最も恰当の物象なり」と述べています。守護と繁栄の守り神として設置した訳ですね。

日本橋の麒麟像

ふしぎな獅子

ここで一般的な神社の狛犬と日本橋の獅子を見比べてみましょう。

一般的な狛犬(津具八幡宮)
日本橋の獅子像

実は阿吽の左右が一般的な神社の狛犬とは逆になっています。麒麟像も阿吽形をとっていますが、獅子と同じく向かって左が阿形、右が吽形となっています。稀に一部の神社でも阿吽の反転は存在する為、間違ったレイアウトという訳ではありませんが、天皇を守る神獣の形式として阿吽の位置関係がルール化され、それが神社で神を守る狛犬たちにも適用され広まっていった経緯がある為、向かって左が阿形というのは例外的な配置と言えます。

なぜ阿吽を入れ替えたのか?

 ここからは阿吽の反転の理由を紹介したいところですが、『日本橋記念誌』および『日本橋志』にも言及はなく、日本橋を取り扱った書籍でもこの話はなかなか見当たりません。そこでいくつかの仮説を考えてみましょう。

仮説1:モデルが左右逆だった

モデルになった神社が左右逆の狛犬であればそれに従うのは当然かもしれません。という訳でどこの狛犬がモデルとなったかですが、妻木らは手向山八幡宮の狛犬をモチーフにしたと言っており、東京市章に前足を掛けたポージングについてはドナテッロ作『マルゾッコ』を参考にしています。しかし手向山八幡宮の狛犬は通常の阿吽となっており、マルゾッコは単体の像の為阿吽とはなりません。その為モデル左右逆説は可能性が低そうです。

仮説2:川から見た際の阿吽を揃えた

道路側から見た場合は阿吽が逆となりますが、90°視点を変えて川から見ると向かって右が阿吽となります。

地理院地図を基に作成

 江戸時代の日本橋で触れたように日本橋川は重要な運河であり、日本橋の下を通る船たちも重要な日本橋の利用者でした。もしかしたらデザイン的な正面性は道路向きに、儀式的な正面性を川向きにすることで交差する交通のどちらにもしっかりと向き合う橋としたかったのかもしれません。

仮説3:橋の渡り始めと終わり

 先代日本橋には実は歩行者にも左側通行のルールがありました。当時の絵図を見るとあまり守られてはいないようですが、このルールに則った場合橋を渡り始めるときに阿、渡り終わりに吽の狛犬がくることになりますね。

仮説4:素で間違えた

 仮説2、3は話の筋は通りそうなのですが、通例から外す際に理由があるのであればそれを明言したほうが角が立たないのではないかとも思わされます。そうなると「素で間違えた」という元も子もない仮説も生まれてきます。とはいえ多くの人々が製作に携わり、東洋西洋の彫刻に対して造詣も深い渡邊長男が原型を担当したことを考慮すると気付かなかったという可能性は低いように思えますね。思いたい。とはいえ万が一うっかりならそれはそれで面白いですね。

仮説5:台座の寸法の兼ね合い

 神社の狛犬は通常身体が参道に向き、顔が参拝者(正面)を向くという姿勢になっています。日本橋の獅子は身体が正面を向き、顔が道路を向くレイアウトになっています。つまり獅子像自体の阿吽と姿勢は一般的な狛犬のものと一致しており、渡邊氏自身は一般的なポージングの獅子を作ったことになります。つまり獅子を取り付ける向きが通常と異なる訳ですね。

一般的な姿勢の狛犬(足助八幡宮)

狛犬の台座は一般的に長方形をしており、これは日本橋の獅子にも一致します。そうなると台座となる親柱を横長にすることで通常の狛犬と同じレイアウトに出来ます。そうしなかった、そうできなかった理由はいろいろとありそうですが、例えば『渡邊氏は通常通りの狛犬を意図して作業を進めたが、妻木氏らはマルゾッコのように正面を向いた獅子像の西洋的プロポーションを意図しており、その意思疎通がうまくいかず修正する時間もなくやむなく阿吽のレイアウトを反転させた』といったようなトラブルがあったのかもしれませんね。

仮説6:言及しないもう一つの可能性

 ここで仮説2の「川から見ると阿吽が逆転する」という話をもう一度考えてみましょう。
 道路から見た阿吽を通常のものとした場合、日本橋川から日本橋越しに江戸城を見てみると阿吽が逆向きになります。当然明治時代ですから江戸城は皇居であり、そこに居るのは天皇です。そうなると獅子や狛犬本来の持つ『天皇の守護獣』という機能が成り立たなくなる。もしかしたらその事に設計の段階で気付いたか、指摘があり、道路側から見た際の阿吽を逆転させる事で皇居に対して正しい向きとしたのかもしれません。これを記録するかの判断を明治時代の人々がどうとるか私には想像しかねます。しかし政治的な、時代を考慮するとそれ以上に繊細な事柄への配慮であったと考えると他の仮説に比べれば言及を避ける理由はあったように思えます。
 ただしこの仮説には一つ矛盾があり、皇居に近い側では更に反転を起こし逆向きの関係となります。その為仮説としてはあまり出来のいいものではありません。一方で、もしかしたらこの二律背反こそが言及を避けた理由だったのかもしれません。

地理院地図を基に作成

おわりに

日本橋の獅子と麒麟の阿吽が左右逆な理由は分かりませんでした!いかがでしたか?
 私の調査不足もあり、今のところ日本橋の獅子と麒麟の謎は謎のままです。しかしこれらの像や日本橋の装飾類は、移動の装置というだけでなく、文化的な存在としての橋の意味を考えさせてくれます。そう考えるとやはり唯一無二の橋なのかもしれませんね。なお大阪の難波橋にもライオンが居ますが、彼らも左が阿形となっています。難波橋は大正4年に架け替えられ、ライオン像もその時に生まれたので日本橋を参考にしたのではないかと思いますが、二つも阿吽が逆転した橋があるのは不思議ですね。

難波橋のライオン像

最後になりますが、去る4/3は日本橋の113歳の誕生日でした。石橋はコンクリート橋や鉄橋と比べて圧倒的に寿命が長く、都の橋梁に携わる技術者も200歳を問題なく迎えられると言っています。とはいえ今日まで綺麗な日本橋が存在していられるのは都や地域の人々の手入れの賜物ですね。これからも日本橋がその名に相応しい美しく少しミステリアスな橋として愛されますように。おめでとう日本橋。

参考文献と注釈

参考文献

『日本橋記念誌 完』 安藤安/編
『開橋記念 日本橋志』 東京印刷株式会社 編
『中央区沿革図集 [日本橋編]』 東京都中央区立京橋図書館 編
『東京の橋 水辺の都市景観』 伊東孝
『橋を透して見た風景』 紅林章央
『東京の空間人類学』 陣内秀信
『近代日本の橋梁デザイン思想』 中井裕
『古地図から読み解く江戸湊の発展 (その1)』 谷 弘
『古地図から読み解く江戸湊の発展 (その2)』 谷 弘
『獅子と狛犬 神獣が来たはるかな道』 MIHO MUSEUM 
『西日本建築探偵団ブログ 2019年6月17日 (月)』

注釈

※1:江戸でも特に歴史のある橋の為、架橋の時期にも諸説ありますが慶長9年に日本橋を起点に街道の一里塚を設けた事や、慶長11年に日本橋のたもとに高札が掲げられた記録があることからもこれが現在一般的な生まれ年と言われています。
※2:当初妻木は東京市の建築課長である三橋四郎を紹介し、自らは相談役に回りましたが、その後三橋氏が市役所を去り自ら装飾設計を担当する事となりました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?