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【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その一 おけいの一件始末 2

 徳川満徳寺は、上野国勢多郡新田庄徳川郷にある尼寺だ。相模国鎌倉にある東慶寺と並んで、幕府から認められた縁切寺でもある。

 幕府が鎌倉にあった頃、新田義季(にった・よしすえ)が開基となり、その娘である浄念尼(じょうねんに)が開山した寺であると伝わる。

 八幡太郎義家の血を引くこの義季こそが、東照神君の祖であるとか………………まあ、その真偽は定かではないが、お陰でこの郷は年貢を免除され、さらに百姓でさえ脇差を差すことが認められ、なおかつ大名行列にも頭を下げずに済まされた。

 満徳寺も朱印百石が与えられ、さらには将軍家の位牌を安置するという名誉も頂いている。

 この寺が、なぜ幕府公認の縁切寺となったのか。それは、東照神君の孫娘千姫に由来する。彼(か)の姫が、秀頼公と縁を切るために入寺し、その後本多家に嫁いだのが始まりであると云われる。正確には、千姫の侍女が代わりに入ったらしいが、以後幕府が認める縁切寺となった。

 因みに、鎌倉の東慶寺も、秀頼公の側室の娘が千姫の養女となって入寺したことから、幕府の権威がつくようになった。

 しばらく歩くと、人家が数軒密集した場所に出る。郷の中でも、まあまあ大きな屋敷が集まっている。その中で一際大きな屋敷が、満徳寺である。

 大門から入ると、左手に熊野三社が祀られている。正面には本堂を囲む回廊が見える。三社と回廊の間を抜けると、右手に寺役人が詰める寺役場や役宅が見え、左手には茶の木で囲まれた花畑がある。寺役人やその家族は、花畑の脇にある外戸から出入りするのが常である。

 惣太郎も、その癖で外戸へまわった。いまの時期、菊が盛りである。花畑には、菊の手入れをしている3人の女と2人の幼子、そして腰の曲がった男の姿が見えた。それを目にしたとき、仕舞った、駆込み女がいたので表から入るべきだ、引き返そうと思った。

 が、一足遅かった。

 腰の曲がった男がぴんと背筋を伸ばし、

「ありゃ、坊ちゃま、お帰りで。まあ、こりゃ、奥方さままで連れてきて。奥さま、惣太郎坊ちゃまがお帰りです。奥方さままでお連れです」

 と、素っ頓狂な声をあげる。寺男の嘉平(かへい)である。

 それは勘違いだと言おうとしたが、嘉平の横で土をいじっていた女も立ち上がり、頬被りをあげて、幾分皺の増えた目じりに、さらに皺を作って、満足そうな笑みを見せた。

「良くぞでかしましたよ、惣太郎」

 振り返ると、奥方と間違われた女は目をぱちくりとさせて、唖然としていた。

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