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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第一章「純愛の村」 55

 如月も半ばに差し掛かったころ、大根の葉っぱで水増しをした粟粥を食べている最中に、唐突にがらっと扉が開き、

「おい、将軍が宣下されたぞ」

 と、八郎が勢いよく入ってきた。

 飯を掻き込んでいた十兵衛は、勢いよく噴出してしまった。

 噎せ返りながら、

「ごほごほっ、将軍? 義秋殿に?」

 と、尋ねた。

「いや、『阿波公方』だ」

 八郎は、断りもなくあがると、そのまま囲炉裏端にどかりと腰を下ろし、十兵衛の椀をひったくると、それになみなみ粥を注いで、ずずずずっと啜り出した。

 それが然も当然のごとくの振る舞いなので、源太郎も姉も特段何も言わなかった。

「ぐぐぐっ、義栄か!」

 十兵衛は悔しそうに天を仰いだ。

 足利義栄は、『堺公方』とよばれた足利義維(あしかが・よしつな)の嫡子であった。

 義栄のことだけを言えば、十三代義輝を廃した三好三人衆らに時期将軍として擁され、阿波の平島よりやってきた ―― ゆえに『阿波公方』である。

 三好らが、操るにはちょうど良いと連れてきたのか、それとも自らの意志で将軍職を狙いに来たのかは定かではないが、義秋らが自らを足利宗家で将軍となるのが筋だと声高に言っても、義栄に足利家を継ぎ、将軍になる資格はないとは言えなかった。

 義栄も、初代将軍尊氏の血を受け継いだ、本家筋にあたるのだ。

 事は少々複雑である。

 義栄の父は足利義維で、彼は十一代将軍義澄(よしずみ)の次男である………………が、長兄という話もあり、ここも複雑なところだ。

 それに関して、色々な噂が絶えなかった。

 義維の母が斯波氏の娘で、義澄の次男義晴(よしはる)の母である日野家の娘よりも格下だったからとか………………ただ義晴も、御末(召使)の子だとか、六角氏の娘だとかいう話もあった。

 また、義晴を将軍にし、傀儡にしたいと企んでいた細川高国(ほそかわ・たかくに)によって、長男であるので将軍職を継ぐ資格があると、無理やり内裏に捻じ込ませたらしい ―― などという噂もあったが、結局のところ義維ではなく、義晴が将軍になったのには、確かに高国の尽力が大きかったが、最大の要因は運………………偶然の賜物であった。

 だが、噂だとは言い切れない事情が、細川高国にもあった。

 将軍家の管領である細川家の宗家筋は、京兆家といわれたが ―― 当主が代々右京大夫についたためで、右京大夫は唐名で京兆尹といった ―― 当時は先の大乱で東の総大将であった細川勝元(かつもと)の子、政元(まさもと)が実権を握っていた。

 この政元、子がいなかった。

 いや、つくらなかったというのが正しい ―― 修験道にのめり込んでいたため、女を近づけなかったとか。

 俺にはできないことだなと、八郎は笑っていた。

 で、子がいないので、三人の養子をとった ―― 澄元(すみもと)、澄之(すみゆき)、そして高国である ―― 順番からいくと、高国、澄元、澄之である。

 これが混乱を引き起こした。

 高国は、京兆家の七代目(実質初代と目される)である細川頼元(ほそかわ・よりもと)の次男、満国(みつくに)の系譜で、その息子の持春(もちはる)と孫の教春(のりはる)が下野守であったので、細川の野洲家といわれたらしい ―― その五代目が高国である。

 ちなみにこの野洲家は、教春の息子で春倶(はるとも)から下っていくと、その子の高基(たかもと)の娘が近衛稙家(このえ・たねいえ)の正室となり、その間にできた娘が朝倉義景の継室として入っている。

 高国は、もとは野洲家とはいえ、京兆家から枝分かれした典厩家に次いで近い血筋であった。

 対する澄元は、細川の阿波守護家からの養子で、高国からすれば格下になる。

 さらに澄之は、九条政基(くじょう・まさもと)の子で、細川家ですらない。

 だがなぜか、高国を差し置き澄元が京兆家の当主として担がれ、そこに澄之を擁する家臣まで現れ、細川家は将軍家以上に宗家争いに明け暮れた。

 最終的には高国が、他の細川分家と協調し、永正四(一五〇七)年に澄之を、続いて澄元を追い落とし、細川宗家を継ぎ、管領となった。

 本家に近く、実質長男でもあったのに、常にその脇に追いやられていた事が、高国の政治家としての原点であり、この経験で、如何に本筋であろうとも、周囲の欲望と勢力によって血筋など如何様にでもなると思い知らされ、義晴の代にもそれを無理に押し通したと言っても過言ではないだろう。

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