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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 中編 4

『日本書紀』に、中臣鹽屋枚夫の名前はない。

 彼の存在が確認できるのは、『上宮聖徳太子傳補闕記(ほけつき)』(平安初期頃作)と『聖徳太子傳暦(でんりゃく)』(延喜10(911)年藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)撰)だけである。
『上宮聖徳太子傳補闕記』では、上宮王家の襲撃首謀者として、蘇我蝦夷・入鹿・軽皇子・巨勢徳太(こせのとこた)・大伴長徳とともに、この中臣鹽屋枚夫の名前を挙げている。

 そもそも『日本書紀』には、上宮王家襲撃の首謀者を蘇我入鹿、その手先となったのが巨勢徳太・土師婆倭連(はじのさばのむらじ)・倭馬飼首(やまとのうまかいのおびと)としているが、『上宮聖徳太子傳補闕記』の著者は、この記載に不満があったらしく、その一文目に「日本書紀暦録。并四天王寺聖徳王傳。具見行事奇異之状。未盡言委曲。憤々不尠」と書き、前述の6名を上宮王家襲撃の容疑者に挙げている。

 ではなぜ、『日本書紀』が、蘇我氏だけに罪を負わせたのか。

 その答えは簡単………………軽皇子は後に天皇に、大伴長徳は右大臣に、中臣鹽屋枚夫は藤原氏になったため歴史から削除されたのだ。

 大悪人蘇我氏を成敗し、新政府の礎となった重鎮たちの手が汚れていてはいけなかったのだ。

 そのため、上宮王家襲撃の容疑を全て蘇我氏に擦り付けたのである。

 まさに、死人に口なしである。

 上宮王家滅亡に関わった中臣鹽屋枚夫は、中臣氏の中ではどういった位置づけにあったのか?

 氏族の由縁書である『新撰姓氏録』には、中臣鹽屋氏という氏族はない。
ただ鹽屋連は存在し、武内宿禰の息子、葛木曾都比古命(かつらきのそつひこのみこと)の後継であると云う。

『中臣氏系図』には、中臣氏の祖となった中臣常磐大連が、鹽屋牟漏連(しおやのむろのむらじ)の娘、都夫羅古娘(つぶらこのいらつめ)の子供であると書いてあるので、中臣氏と鹽屋氏が、かなり密接な関係にあったと思われる。

 また、軽皇子の息子である有間皇子(ありまのみこ)の傍に仕える者の中に、鹽屋鯯魚連(しおやのこのしろのむらじ)の名前が見えるので、中臣氏、または、軽皇子と何らかの関係があったことは十分に考えられる。

 鎌子は長男と言いながら仲郎(次男)の字名を持っている。

 鎌子は智仙娘の長男で、中臣御食子にとっては次男であった。

 そして、御食子の本当の長男が、鹽屋氏の娘が生んだ枚夫であった。

 中臣鹽屋枚夫は、上宮王家の襲撃に加担したという、藤原氏にとっては存在してはならない人物である。

 そのため、彼は歴史から抹消され、古代史の英雄である鎌子に中臣家の長男という地位まで奪われたのである。

 ある意味、枚夫も歴史の犠牲者なのかもしれない………………

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