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【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その四 おみねの一件始末 8

 父が江戸に到着するという前日、その予感が的中した。

 同心の源五郎に呼び出され、南町奉行所に行くと、

「巳之助の話で、どうも最近、おかるの周辺を嗅ぎまわっているやつがいるというのですよ」

 と、鼻を鳴らしながら言った。

 人相を聞いてみて、それが付けてきた男だと思った。

「そんなことがありましたか。しかし、いったい何をしているのでしょう」

「北町の同心からの嫌がらせ、それとも警告でしょうか」

 源五郎は、それは違うでしょうと首を振る。

「大澤の手先であるなら、おかるの身辺を調べることなどしないでしょう。もしかしたら……」

「何か、心当たりがあるのですか」

「まあ、ないことはないです。これは、北町のある同心から聞いた話なんですが、実はいま、北町でも大澤のことが問題になっておりましてね。というのも、よからぬ噂が流れているようで」

「どういう噂です」

 源五郎は声を潜める。

「例の政吉ですが、大澤が殺(や)ったのではないかと」

「ああ、その話なら私も板橋で聞きました」

「ええ、そうなんですよ。強請(ゆす)り、集(たか)りならまだしも、まあ、許されることではないんですが、それでも取締りを行ううえでは、そういうこともしないといけませんので、その辺は上も見て見ぬふりをしてきたようですが、さすがに殺しとなりますとね。それで、やつの周辺を密かに探索させているらしいのですよ。多分、それがらみで、大澤と懇ろなおかるの身辺も調べているのか知れませんね。しかし、これはまずいかもしれませんよ」

「なぜですか」

「大澤は、目鼻の効く男です。ですから、これまでも幾たびの修羅場を潜ってくることができたんですが、自分の周りを嗅ぎまわる男がいるとなると、身を隠すかもしれませんし、もしかしたらおかるを消すやもしれません」

「それはまずいです、実にまずいです」

「お父上は、まだいらっしゃらないのでしょう」

「明日の予定です」

「そうですか……」、源五郎は眉を寄せる、「その前に、おかるの身を確保しますか、おはまであるかないかは別にして。理由(わけ)は、なんとでもなりますから」

「そうですね、それしかないでしょう」

 ここまできて、おはまを消されるわけにはいかない。もちろん、おかるがおまはであればの話だが。それでも、万全を期したほうがいい。

 ふたりは、神田へと向かおうとした。

 そのとき、巳之助の手下という男がやってきた。

 巳之助からの急な報せらしい。

「親分からなんですが、おかるの長屋に、身辺を調べていた男が入っていったそうです。早く来ていただきたいと……」

 手下がしゃべり終わらないうちに、惣太郎と源五郎は走り出していた。

 やがて少しして、別の手下が走ってきた。

「本多の旦那、大変です、殺しです」

 その瞬間、惣太郎は仕舞ったと頭に血が上る思いだった。

「おのれ、大澤!」

 北風に怒鳴りつけながら、神田まで一気に走りぬけた。

 長屋の前には、野次馬が集まっていた。

「退け退け」と、奥さん連中を掻き分けて中に入ると、巳之助が無念そうな顔で、「旦那、申し分けありません、注意して見ていたのですが、突然のことで……」

 惣太郎は長屋に入るなり、女の死体を捜した。が、どこにも転がっていない。代わりに、男の死骸(むくろ)がふたつ ―― ひとつは同心の着物をまとっている、大澤だろう、心の蔵を獲物でひと突きである。もうひとつは、惣太郎を付けてきた男である、こちらはうつ伏せに倒れている、背中が裂け、血が溢れていた。

 女はいた。

 土間にべたりと腰を落としていた。手には包丁が握られ、血が付着している。両手も真っ赤に染まっている。彼女は、自分でも何が起こったのか分からないといった様子で、呆然としていた。

「おはまか」

 と、惣太郎が呼びかけたが、女はぼんやりとした目を向けるだけで、それには答えなかった。

 ただ、「立木の旦那さま、すみませんでした」と、惣太郎には、はっきりとそう聞えた。

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