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私の人生の転機➁

https://note.com/hirochii_omoi/n/n589e284728cd(①)

父親に精神科受診を止められた高校3年の夏。
「父親に分かってもらおう」と私が行動化に選んだのは

“飛び降り”

だった。



2020年9月14日夜、私は絶望の淵に立っていた。

Twitterで最後に「大好き」と呟いた。
「はぁ」とゆっくり息を吐いた。

目を瞑って、
心を軽くするために。

自宅2階から飛び降りた。


数十分経っただろうか、痛みで目が覚めた。
とにかく痛みが強く、
誰でもいい、「助けて」と、
中学の担任や母親に電話をし、119にも自分で連絡していた。
搬送されたところで記憶は途絶えている。

目が覚めたら翌朝で、病院に居た。
搬送先では大きな手術はできないとのことで、
数時間後、大学病院へ転院になった。

そこで入院したのはICUだった。
転院した日の夜、「第二腰椎破裂骨折」の治療として手術を行った。

再び目が覚めた後、看護師さんとこんな会話をした。

看護師さん「どうしてこんなことしたの?」
私「私ね、今まで虐待されてきたの。もうこんな環境耐えられなかった。
だからね、逃げるためにやったの。
看護師さん「ここは安全だから。私たちが絶対守るから。

私の手をギュッと握り、そう優しく語りかけてくれた。

翌日、精神科の医師がICUの私のもとへ顔を出してくれた。
期待通り精神科に繋がれたことに安堵した。
そして、初めて自分の病名を告げられる。

私「私って診断するなら病名は何ですか?」
精神科医「フラッシュバックはあるんですよね?
それならPTSDはあるでしょう。
それと、情緒不安定性パーソナリティー障害も。」

自分の病名を知り、そこでも再度安堵した。
私の辛さは思い込みではないのだと、この辛さは病気なのだと他人に言ってもらえると、この毎日生きていく中で出会う壁に、“名前”を付けてもらえたような気がした。

精神科に繋がれたことで、飛び降りたことは間違いではなかったのかなと思うようになっていた。

しかし、想像以上に体へのダメージは大きかった。
地域で“スパルタ”と言われるようなリハビリ、強い疼痛による嘔気、点滴の毎日。
また、手術部位の創部感染を起こしてしまい、再手術・点滴6週間継続が決まった。

受傷から数日後、ソーシャルワーカ(精神保健福祉士/PSW)さんが来てくれた。
「先生から事情を伺いました。今日は挨拶だけなので、またお話伺いに来ますね。」
私は福祉にも繋がることが出来た。


私はその時の人生に悲観していた。

「ねぇ私、何の為に逃げたの?」
「楽になりたい」
「苦しいよ」
「一時的にでも幸せになりたい」
「その為なら命だって懸けた」
「SNSに流されたんじゃない」
「なぜ親は責任を押し付けるの?」

“ああ、もう嫌だ、死にたい。”


フラッシュバックの嵐。

あぁ、私っていつもそうだった。

幸せになりたくて、この環境から逃げたくて、
楽になれると夢見て、大きな行動を起こして。

でも結局、私の人生のシナリオに
「ハッピーエンド」なんて載っていないのだ。

でも負けられない。
今、この入院で私がどう動くかによって
私の未来が変わるかもしれないのだ。

戦わなきゃ。


次回へ続く。


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