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私の好きな一首

暗い燃料フエルタンクのなかに虹を生み虹をころしてゆれるガソリン

/穂村弘《シンジケート》、目をみちゃだめ より

この短歌うたは穂村弘さんの作品のなかでわたしが最も好きなもののひとつである。唐代の詩人、王維おういの漢詩、「辛夷塢しんいを」を思いおこさせからでもある。

辛夷の花

辛夷塢/王維

木末芙蓉花  木末こずゑ芙蓉ふようの花
山中發紅萼  山中紅萼こうがくはっ
澗戸寂無人  澗戸かんこせきとして人無く
紛紛開且落  紛紛ふんぷんとして開き

人里から遠く離れた山の奥深く
辛夷の木がうている、
梢には辛夷こぶしの花が
おおきな紅色の花を咲かせている。

谷間の草廬に人影はなく
あたりはひっそりとしている、 
ここは神仙郷、世俗から遠く離れた場所、
花はただ開き、そしてこぼれていく。

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手元にある「新潮国語辞典 第2版: 現代語・古語」の定義によると、は、

「にじ【(虹・(霓】にわか雨のあとなどに太陽と反対側の空中に見える弧状の色帯。太陽の光が空中の雨滴に当たり、屈折・反射して生じる。ふつう、外側から赤・ダイダイ・黄・緑・青・アイ・紫の七色とする。また、広く、日光のスペクトラムの見える現象をいう。ぬじ。のじ。」

新潮国語辞典 第二版: 現代語・古語

ということらしい。

雨滴という媒体があって太陽という光源があって正しい位置にいて条件がそろっていればはじめて見られる。そういう条件が揃っていなければ見られない。

虹って、見る人の位置によって見える形が違ったり、見える位置が違ったり、また全く見えないことだったある。横から見れば虹の架け橋だけど、上から見れば真ん丸のカタチ。立ち位置によっては、えっ、どこぉ~?ってことになる。子供のころ、天気のいい日なんかに、空に向かって霧吹きでしゅーっと霧を吹くと七色の光がぱぁっと顕れてきえる。でもあちら側に立っている妹には見えなかったりする。え、見えーん、とかいって。
まっくらい燃料フエルタンクの中に虹ができるわけないがね、って自分の母親なら言いだしかねない。暗いとこで虹なんかできんがね、なんて。
でもなんのことはないのだ。光を当てさえすればいい。そうすると、ほら、真っ暗いタンクの中で、ちゃっぽんと虹が出て、ちゃぽんときえる。ちゃぽん出ては、ちゃぽんときえる。ちゃぽんちゃぽんと、出ては消えるから。どう、カンタンでしょ。

僕には、年に何回か、何か月に一度かだが、僕にしか見えない虹が見える。この虹は実はあまり見たくないのだが、どこにいようとも関係なくその虹は僕のところへやって来る。地下鉄に乗っているときでも、車を運転しているときでも、会社で仕事に取りかかっているときでも、家で休んでいるときでも、朝昼晩関係なく、そして寝ている間にでも自分が認識ていないだけで、その虹はやってくる、"きゅーっ"を伴って。まづ視野の左下あたりに見えないスポットが顕われはじめる。そしてきゅーっが一段と激しくなると、次第に弧状の虹が顕れ始める。最初は虹はきらきらきらと多彩な色を放ちながら、控えめに顕れる。虹はだんだんと大きく成長していき、同時にきゅーっも大きく重くなる。顕れ始めて、30分で最高潮に達し、視野は虹でいっぱいに満ちるのだ。ただただ光り輝き始めた眼前の虹に意識を集中するだけ。どちらの目で見ているのかはなからない、左側かとおもい左目を閉じても、まだ虹は眼前にあり、右の瞼を指で押さえても虹はいっぱいに広がって輝いている。ただ身をゆだねるしかない光り輝く虹の自顕は、40分にもなるとだんだんと消えていき、視界にはまた元の何事もなかったいつもの光景が戻ってくる。
いわゆる、「閃輝暗点せんきあんてん」という症状だ。芥川龍之介の『歯車』という短編小説にもでてくる、あれである。

だれにも見ることができない虹が見える。誰も見ることができなければ虹は「存在」しないのか。アマゾンの奥深く人類未踏の地にある、未だ発見すらされていなく地図にも載っていない滝の水滴が風にあおられて顕れては消える虹は、では虹ではないのだろうか。自分にだけ見られる虹が、虹ではないとすれば、では何人の人が見ることができれば、それは虹になるのか?この世で自分以外にもう一人だけWITNESSがいなければ、虹と呼ぶに値いしないのであろうか。虹と認定されるにはこの世で最低でも2人の証言が必要です、とか。

暗いタンクの中が見えているのはすでに光を当てているから、だから虹が見えるのだ。ただ光を当ててくれさえすればいい、ただそれだけでいい。


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