私の芸術運動120議事録に残らない質疑応答

なぜ描くのか?

なぜ生きるのか?

とかなり似ていると思う。

それでも前を向いて生きる人には、どう生きるのか?という問題に変化する

だけど、ふとした時にやっぱり思い出す

なんで生きるのか?

そんな事をいい歳してまだ言ってんの?と言われてしまうかもしれないが、大人になれば自然にわかる事というわけでも無いように思う、むしろ大人になって、時間も余裕も無くなって気づけばそんな日常が生きるという事に関する感覚を麻痺させているだけなんじゃ無いか?って。

仕事が忙しくたって、結婚してたって、なんだって、自分はどういう人間なのか?なぜ生きているのか?という問いかけはポジティブな意味で必要だと思う、ここには無限の可能性を感じる。

もう一方は

日々の生活に疲れて、私はなんで生きているんだろう?と思うのには閉塞感を感じる、同じ質問なのに意味合いは全く違うように聞こえる

同じ質問内容だけど、問いかけるのと問い詰めるの違いでしょう

別に生きている意味なんて実はなんでもいい、ただそういう漠山とした問いかけが今の自分について考えるいいきっかけとなるに過ぎない

私は自分に対して問い詰める事はしないたちだ、問いかけはする、周りの環境、状況なんて全く無関係のところで、自分たった一人、身一つで問いかけなきゃそれは問い詰めるのと同じに感じてしまう、周りがどうだから自分ばどうしなきゃいけないの?というのは本当に心が苦しい

そんなんじゃ絵は描けないし、描こうとも思えない

風に向かって「君は誰だい?どこから来たんだい?どこに行くんだい?もう行くのかい?そっか、じゃーまた話を聞かせてくれよ」というくらいの感覚が無きゃね。笑

今苦しい思いをしている人が沢山いる、周りから苦しめられてジリジリと崖に追いやられている人もいるし、自分で自分を苦しめている人も沢山いる、漠然と息苦しさを感じて生きている人もいる、いろんな人がいる中で、みんなに「なぜ生きているの?」という質問をぶつけても、受け取る側の精神状態によっては全く違う質問になってしまう

私に死ねと言っているの?と思う人もいる

私はねーとペラペラ答えてくれる人もいる

知らねーと答える人もいるし

黙ってしまう人もいるし

怒る人も、泣く人も、笑う人も、居るだろう

言葉は言葉としての意味とは別に受け取る側の心が映る、そしてその言葉は言葉として残る

絵画は言葉を持たないがより観念的に鑑賞者の心が映る

むしろ絵画を前にした人は描かれたものを通して自分自身と会話する

そこには実は質問は描かれていないのに。

絵画を通して行うコミュニケーションは問い詰めるではなく、問いかけるだと私は思う。

私は自分がどういう画家なのか?よくわからない、だけど、議事録には残らない質疑応答を絵画を通して色んな人にしてもらって、心に大事にしまって貰いたい

画家は心にしまっておけずに絵にするけどね。笑

上手い絵を描きたいんじゃ無い

上手く生きたいんじゃ無い

じゃーどうなの?

それを私は絵に描いています。


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