私の芸術運動132普遍性

芸術は世界を変えることができるのか?

これは本当に漠然とした問いでして、とある一枚の絵を世界中の人が見て、一つの方向に向いて動き始めるって事はなかなか想像するのも難しいですね、これは鑑賞者がそれぞれの感性で見てそれぞれの想いを自由に感じ取る事が出来るからです、つまり色んな解釈ができるんです、気に入る人もいれば気に入らない人ももちろん居て、何も感じない人も居るでしょうから。

社会的繋がりという面では芸術は違う世界にあるわけです、社会性が無いと言えます。

芸術に何かしらの具体的なメッセージ性を乗せればその方向に向かっていく一つのきっかけとなりえます、それは歴史を見ても明らかで例えば宗教などを絡めた例はかなり多いです、元を辿れば宗教の具現化、偶像化と言えます、美術館に行けばそのような題材の絵画はたくさんあります、それを拝みたくさんの人が一つの思想の元祈りを捧げた事でしょう、いや人生をかけたでしょう。

日本では隠れキリシタンを見つけ出す方法として踏み絵が用いられていました、これはとても残酷な事です

信心深い信徒からすればその絵はとてつもない効力を持っていたでしょう。

私は無宗教ですけども無神論者じゃありません、私は敬虔な信徒でもありませんが、いざ神様の絵を「踏め!!」と言われたら踏みたくありません、それどころか知らない誰かの肖像画を踏め!と言われても踏みたく無いです。

もし、好きな人は踏めないけれど嫌いな人なら踏めるというのは極論ですけど、そう思う方がいるならそれは恐ろしい感覚ですね。

私は芸術家であり、画家に分類されます、言い方を変えれば自分の世界の創造主、クリエイターです、私だけじゃなくて生きとし生けるものは皆そうです、何のために?創造するか?と言えば、それはやはりより良くしたいからでしょう。

これまで生きてきて、色んなものを見て聞いて感じてきました、学生の頃は学生の頃なりの良し悪し、社会に出てからも同じです、本当に色んな人が居て色んなことが有るものです、ニュースで流れる遠い世界の事が本当に報道されている通りの事で、つまり真実なのか?は確かめる術はありませんが日夜たくさんの事が起こっています、きっとニュースになっていないことの方が多いのは想像するに難しくありません。

私の芸術運動は世界に対して無力なのでしょう

自分で言うのもなんですが、非常に純粋無垢で、むしろ蔑ろにされ忘れられてしまうものたちばかりです、社会の流行りにも触れない、ビジネス性も無い、話題性もない、身近な友人達すら気にも留めないです

そんな事はわかっているのに、私の中には情熱があって、より良い世界の為に描こうと思うのです、こういう感性で世界を見たい、感じたい、という想いがこもっています、しかしそれを説明する文章もメッセージも無い、それに発信する価値があるか?とも思います、SNSで流行るものというのは仕組みがちゃんとなされているからでしょう、その仕組みが終われば廃れるのも道理です。

私は普遍性を描いています、流行りも廃りもない、私達が生まれる遥か昔から脈々と、淡々と続いてきたもの、今も私たちの身の回りを満たし、私たち人間が消えた後も続いて行くもの、当たり前すぎて意識すら出来ない事なのかもしれません、それらが私を突き動かすんです、その中では私達なんかちっぽけな存在に感じますが、大きい小さいの概念すら無いものです、むしろ私たちもその大きな流れの中の一部です。

消そうとしても消せない、その逆も言える事です

私の芸術運動でそれを少しでも忘れないようにきっかけとしてでも伝えられたら、世界は実は大きく変わると思ってます。

それが何か?を言葉に出来ないから絵を描いてるんですよ私は。

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