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<名作文学の中で息づくBUMP OF CHICKEN珠玉の名曲選>ノーベル文学賞に値する文豪「藤原基央」の世界

※2019年11月1日に掲載された音楽文です。いろいろ訂正したい箇所はあるにせよ、あえてそのまま転載します。

2016年、ボブ・ディランがミュージシャンとして初めてノーベル文学賞を受賞したことを知った時、私はすぐに思った。それならBUMP OF CHICKENの藤原基央だって、いずれノーベル文学賞を受賞してもおかしくはないのではないかと。藤くんの日本語は深すぎて日本人でも読み解くことは難しいけれど、海外にもバンプファンはすでに存在する。読解できなくても、心に響く歌詞を紡ぐことのできる藤くんは何十年か先、ノーベル文学賞の候補者のひとりになり得るだろう。

まずどの辺が文学賞に価するのかと言うと、他の名立たるアーティストからもファンとして慕われていることが挙げられる。桜井和寿、米津玄師、SEKAI NO OWARIのFukase、それにスピッツの草野マサムネなどそうそうたるアーティストばかりである。特に草野マサムネは今年9月、自身のラジオ番組内で、バンプを取り上げ、アーティストとしてだけではなく、普通のファンとしてバンプについて熱く語ってくれた。選曲したひとつの楽曲である「ハルジオン」に関しては、「名作の絵本を読んだあとのような、心が洗われる、浄化されるような名作」とコメントしてくれた。それは私もずっと思っていたことであり、それを草野マサムネがラジオを通して発信してくれたことが本当に感慨深かった。

次に一般のファンに関しても、バンプの歌詞に魅力を感じているリスナーが多いことが挙げられる。ここ音楽文においても、バンプに関する音楽文が他のアーティストと比べて圧倒的に多い。毎日のように誰かがバンプについて語っている。まるで読書感想文でも綴るかのように、音楽文をしたためている人が多い。歌詞の謎を解き明かすように、それぞれの見解を論じている。よって藤くんの歌詞は多くのリスナーが考察したくなる文学と言えるだろう。

そこで今回、私は長年思っていたバンプの珠玉の名曲と名作文学との関係性について改めて考えてみることにした。

1曲目は初期の楽曲「K」に関して考察してみる。
忌み嫌われ者の黒猫はひとりの心やさしい絵描きの人間と出会い、初めて友情を知る。貧しさの故、絵描きは死んでしまう。恋人にこれを届けてほしいと黒猫に手紙を託して。

<雪の降る山道を 黒猫が走る 今は故き親友との約束を その口に銜えて
 「見ろよ、悪魔の使者だ!」石を投げる子供 何とでも呼ぶがいいさ 俺には 消えない名前があるから>
<忌み嫌われた俺にも 意味があるとするならば この日のタメに生まれて来たんだろう どこまでも走るよ>
<走った 転んだ すでに満身創痍だ 立ち上がる間もなく 襲い来る 罵声と暴力>

すでに映画でも見ているかのように錯覚してしまう名曲なのだが、これは太宰治「走れメロス」の世界に通じると思う。
多くの教科書にも採用されているため、説明するまでもない小説だが、邪心に満ちた王に信実を教えるため、主人公メロスは王の言いつけ通り、親友セリヌンティウスを人質にして、妹の結婚式に参列するためその街を離れ、自分の弱い心に負けそうになりながらも約束の刻限までに王と親友の待つ王城へ走って戻るというストーリーである。メロスとセリヌンティウスの強い友情を見せつけられた王は改心するというお決まり「勧善懲悪」パターンではあるが、これは「K」において黒猫と絵描きによって表現されていた友情物語と似ていると思った。くじけそうになりながらも、友情に応えるため走り続ける黒猫はまさにメロスだと思った。むしろ「走れメロス」よりも悲しく美しい物語だ。大切な親友はすでに亡くなっているのに、それでも友情に応えようとするなんて、なんて健気な黒猫なんだろうと涙をそそられる。しかも最後は黒猫自身も死んでしまうから、物語としては悲しい結末なのだけれど、でもなぜか心が温まる楽曲だから不思議だ。メロスはハッピーエンドであるが、「K」はバッドエンドと言えるかもしれない。けれど、メロス以上に心に刺さるし、生まれた意味や生きる意味を考えさせてくれる名作だと思う。「走れメロス」に代わって、教科書に採用されてもいい文学だと思う。

2曲目は「ガラスのブルース」に関して。こちらも有名すぎる楽曲であるが、これは私の大好きな絵本、佐野洋子作「100万回生きたねこ」と同じ死生観を持つ猫の話だと思った。「100万回生きたねこ」も有名な絵本のため、多くの人が知っているとは思うが、少しだけ説明すると、100万回も死んで100万回も生きる猫がいて、その猫は何度でも生きることができるため、死ぬことは怖くなかった。けれど、ある日、自分にまったく興味を示さない美しい白い猫に出会って、恋をして、子どもも生まれて、初めて幸せだと思える時間を過ごす。白猫が死んでしまって、泣き続けているうちに自分も死んでしまう。そして何度も生き返ることのできるはずのその猫は二度と生まれ変わることはなかったという何度読み返しても泣ける物語が描かれている。

これはまさに「ガラスのブルース」の猫と同じような猫の物語だと思った。こちらの猫はたった一度きりの短い命を精一杯生きていた。一秒も無駄にできないと大きな声で唄いながら力強く生きていた。100万回生きた猫が最後の人生で白い猫と出会って、命の尊さを知ったように、ガラスの眼をした猫はたった一回限りの人生で命の大切さに気付いていた。

<ガラスの眼をした猫は唄うよ 生きてる証拠を りんりんと ガラスの眼をした猫は叫ぶよ 短い命を りんりんと ガラスの眼をした猫は叫ぶよ 大切な今を りんりんと>

そして、猫は命を全うして死んでしまう。

<ガラスの眼を持つ猫は星になったよ 大きな声も止まったよ 命のカケラも燃やし尽くてしまったね 得意のブルースも聴けないね>
<だけどオマエのそのブルースは 皆の心の中に刻まれた これからツライ事がもしあったなら 皆は唄いだす ガラスの眼を持つ 猫を思い出して 空を見上げて ガラスのブルースを>

ここで、さらにもう一冊、スーザン・バーレイ作「わすれられないおくりもの」という絵本の中で描かれている死生観が登場する。
「わすれられないおくりもの」も有名な絵本である。死期を悟ったアナグマは自分が死んでも心は残ることを知っていて、死を恐れてはいなかった。アナグマはキツネやモグラなど仲間からとても慕われていて、アナグマが死んでしまった後、森の仲間はアナグマの思い出話を語り合う。それぞれにアナグマのわすれられない思い出があった。それは死んでしまっても消えることのないアナグマが残してくれたおくりものだと気付く。

「ガラスのブルース」の猫もブルースという彼にしか残せないわすれられないおくりものを残してくれた。短くもたくましく生き抜いた猫の命がみんなの心に刻まれたのである。もしもガラスの眼をした猫が藤くん自身だとしたら、藤くんが年老いて亡くなってしまって、今、藤くんと同じ時代に生まれてリアルタイムでバンプの曲を聞いている私たちリスナーも死んでしまったとしても、「ガラスのブルース」というわすれられないおくりものは歌い継がれると確信している。なぜなら「100万回生きたねこ」と「わすれられないおくりもの」という二冊の名作が合わさったような死生観の名曲だから、二冊が何十年もベストセラー絵本として残っているように、ずっと歌い継がれる名曲にならないわけがないのである。

3曲目、「花の名」に関しては、小田和正にもカバーされたことがあり、こちらも名曲であるが、この楽曲に登場する花はサン=テグジュペリ作「星の王子さま」に登場するちょっと不器用で気高い花と同じような意味を持つと思った。
「星の王子さま」の王子さまが住む星にある日、美しい花が一輪、花を咲かせた。彼女は自分のことを自ら美しいと思っており、謙虚ではない花だった。王子さまは風に弱いと駄々をこねる彼女のためについたてやガラスの鉢を用意した。花は王子さまに構ってもらうことで愛情を確認し、王子さまも彼女のわがままを聞くことで愛してあげていると思い込んでいた。王子さまは自分の星から脱出することにし、その花とも別れることになった。地球へ辿り着いた時、王子さまは驚く。自分の星に一輪しかなかったあの花(バラ)がたくさん咲き乱れていて、みんな美しかった。彼女は自分が宇宙にたった一本しかない種類の花だと誇りに思っている様子だった。特別だと信じていた花が実は普通のバラと知り、ショックを受ける。けれど、王子さまは出会ったキツネに「きみのバラは世界にひとつしかない。きみがバラのために費やした時間の分だけ、バラはきみにとって大事なんだ。」と教えられる。

高校生の頃、初めてこの物語を読んだ時からずっとこの「特別な存在」に憧れていた。その特別な存在が「花の名」においても登場する。

<あなたが花なら 沢山のそれらと 変わりないのかも知れない そこからひとつを 選んだ 僕だけに 歌える唄がある あなただけに 聴こえる唄がある>

同じ種類の花なんていくらでも存在するのに、ちゃんと選んで、絆を結び合ったら、特別な存在に変わる。まずは「選ぶ」ということと「選ばれる」ということが重要なわけで、それは簡単なようで難しいことだと思う。私はきっとひとつを選べないから、選んでももらえないのだと思う。だからまだこの歌詞の真意を掴みきれていないかもしれないけれど、「星の王子さま」の王子さまがたったひとつのバラの花を選び、選ばれたことは「花の名」の歌詞で描かれている愛情と重なる。

以上、今回は名作の世界に通じるバンプの3曲の楽曲をピックアップしてみた。はっきり言って、バンプの他の楽曲も、例えば「アルエ」、「ダンデライオン」、「車輪の唄」なども、その曲自体がすでに名作級のものが多く、歌詞をそのまま絵本にできてしまう気がする。アンデルセン童話やグリム童話のように、読み聞かせる物語としてぴったりだ。

私は個人的に長編小説よりも、童話や短編小説が好きだ。なぜなら、長編小説を読もうとするとそれなりに労力や時間がいるからだ。童話や短編小説なら、ちょっとした隙間時間に読むことができる。がんばらなくても、自然と頭に入る。バンプの楽曲はまさにそれなのだ。よし、聞くぞと気合いを入れなくても、ふと街角やラジオから聞こえて来たり、ちょっと疲れた時にCDを流すと癒される、幼い頃、寝る前に読み聞かせてもらった絵本のような効果があるのだ。なんだか心が疲れたなという時に聞くと、一冊の絵本を読んだ時と同じように、心が洗われる。名曲ってそういうものだと思う。世界共通の名作のような楽曲だからこそ、国籍男女問わず、幅広い年齢層にバンプの楽曲は支持されているのだろう。

だから私はいつか本当に藤原基央がノーベル文学賞を受賞するのではないかと密かに期待しているのである。そうなればいいという希望とも言える。

私にとってバンプの歌詞カードがすでに本と同じ存在であり、楽曲を聞けない時はひたすら読み漁っている。音楽の教科書だけでなく、国語や道徳の教科書に採用されてもいいと思える歌詞が多い。というか、子どもたちの心を養わせるためにも国語や道徳の教科書に採用されてほしい。故・市原悦子がもしも生きていたら、あのやさしい声で朗読してほしいくらいだ。語り継がれるべき物語がバンプの楽曲の中にある。バンプの楽曲の中にはたしかに名作の世界が息づいている。色褪せることのないバンプの名曲を名作と共に、多くの人に聞いて読んで味わってもらいたい。音楽としてだけでなく、文学としてもバンプの楽曲は価値を成すものだから。

しかしながら、つい最近読んだ新聞記事によると、高校において2022年度の新入生から適用される新学習指導要領の国語教育が実用性重視に転換されるため、文学を学ぶ機会が減ってしまう懸念があるらしい。社会に出てから必要となる話し合いや論述に重点をおいた国語教育になる可能性があり、小説や詩歌などは現行の教科書よりも減ってしまうらしい。個人的にはむしろ増やすべきと考えているが、これからの教育は実用性に重きを置くようだ。たしかに何でも論理的に考えられれば、問題は解決しやすいかもしれない。けれど、人間同士の問題が生じた時、すべてが論理で解決できるわけではないだろう。小説や詩では人間の心情が描かれることが多い。論理で片づけられない問題が生じた場合、相手の立場になって考える思いやりや、やさしさという感情が必要になる。それは文学作品から多く学ぶことができる。藤くんの歌詞だって、厳密には論理性に欠ける時もあるかもしれない。でもつじつまが合っても、合わなくても、多くの人の心に、それぞれが抱えている悩み事や問題を解決する勇気を与えてくれる言葉を多く歌ってくれている。

それは先に列挙した文学作品と同じで、社会に必要ないものと言えるだろうか。論理性がなければ、教育から排除すべきものなのだろうか。私は情操教育のためにも、せめて現在と同じくらいの分量の小説や詩歌を学ぶ機会が必要だと考える。そもそも読書をそれほど多くしない人にとっては、学校の国語の時間が唯一の読書タイムだったりする。私もその傾向があり、暗記するほど読み込んだわけでもないのに、やはり学生時代に学校で触れた文学はいまだに記憶として残っているし、心がもやもやした時は心の糧にもなっている気がする。特に小学生時代に学んだシンプルな物語や詩などは簡単な分、記憶に残りやすい。論理的ではないからと言って、それが必要ないものとは思えないのだ。数十年後、文学に触れなかったおかげで、人生を侘しく終える人たちが増えていたとしたら悲しい。論理も重要かもしれないけれど、健全な心を養うためにも、論理以外の国語はさらに重要だと考える。

その新しい国語の学習指導要領問題を解決するためにも、バンプの力が必要だと思う。冗談ではなく、本当に藤くんの歌詞を国語の教科書で取り上げたらいいのにと思う。生きていると、論理に基づいた正しさだけを追求しても、解決できないことだってある。時には正しくないことも認めなきゃいけないし、論理だけでは導き出せない間違いの中にある正しい答えを必要として生きなきゃいけない時だってあるから。論理で片づけられない難問をバンプの歌が解いてくれるのだ。

社会に出た時の実用性ばかり重視していたら、国語だけでなく、そのうち、音楽や美術という芸術の授業も軽視されそうだ。音楽なんて必要ないとお偉い学者さんたちから思われたら困る。これからの国語や音楽の教科書にはバンプが必要なのだから。

追記として、私はお堅い長編文学作品はやや苦手で、先にも述べたように短編小説や童話が好きな人間である。今まで出会った本の中でベスト3を挙げるとしたら、「100万回生きたねこ」、「わすれられないおくりもの」、「星の王子さま」という3冊だ。これは学生の頃から長年変わっていないし、これから先も変わる予定のないベスト3だ。その自分の人生においてベスト3の物語の世界観が、バンプの楽曲に備わっていること自体が奇跡的だし、たぶんきっとこの3冊が大好きだからこそ、バンプの楽曲も好きにならざるを得なかったんだろうなと今ふと気付いた。

「100万回生きたねこ」に関してはあまりにも好き過ぎて、個人的な趣味でトリビュート童話を創作したくらいである。オマージュ作品とも言える。その童話を皮切りに、いくつかの短編小説も生まれた。その時、無意識的に「ガラスのブルース」がテーマソングになっていた。だから絵本と楽曲の猫の生き様が似ていると気付けた。
バンプの楽曲の素晴らしさに気付かせてくれた大切な本と、改めて大切な本について考えるきっかけを与えてくれたバンプの楽曲に感謝したい。

もしも大学生時代に戻れるとしたら、バンプの歌詞を研究できるゼミを専攻して、卒論はバンプをテーマにしたい。
もしも教師になれていたら、国語でも音楽でもない「BUMP OF CHICKEN」という授業の時間を設けて、生徒たちにバンプの世界観を教えたかった。
そんな叶わない夢をせめてここに書いて夢を叶えたつもりになっている。哲学的要素も含む童話のような藤くんの文学的歌詞はこういう夢まで見させてくれた。
最後に改めて、すべての人に平等であり、なおかつ、特に現代社会で弱り切った心の持ち主の人にありのままの自分で生きることを教えてくれる藤原基央の文学的歌詞はノーベル文学賞に価すると言えるだろう。

もう1冊だけ、大切な童話を忘れていた。アンデルセン作「みにくいあひるの子」について。周りから醜い鳥とのけ者にされ、自身でも醜いと思い込み、自己嫌悪に陥っていたが、やがて美しい白鳥に成長したという内容だが、これは「モーターサイクル」の世界だと思った。

<死んだ魚の目って言われても 心臓はまだ脈を打つ>
<気にする程見られてもいないよ 生まれたらどうにか生き抜いて>
<死んだ魚の目を笑う奴に 今更躓く事もないでしょう>

この楽曲の中で<死んだ魚の目>という言葉が象徴的に何度も繰り返されている。みにくいあひるの子が自分は醜いと失望するのと同じように。でもバンプの場合、完全に失望しているわけではなく、むしろ開き直って、<死んだ魚の目>で何が悪いというように生きる希望を忘れてはいない。近年と比べてより尖がっていた頃の藤くんの歌詞だが、まるでシーグラスのように波に揉まれ、いつしか丸みを帯びて、人々の心を癒し、いつの間にか彼は白鳥のように美しい存在になっていた。白鳥になっても今もなお、みにくいあひるの子としてなんとか生きている人たちのことを忘れてはいない。寄り添ってくれるし、勇気を与えてくれる。白鳥どころではない。藤くんは星の鳥レベルに希少価値がある。藤くんが世界のMOTOO FUJIWARAと呼ばれる日はきっと来るだろう。

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