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文章の練習と頭の整理

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最近の記事

目標の作り方

ここ数年、目標を持って生きていない。 強いて言えば、良い塩梅で生きることを目標にしている。 何でもほどほどに。 ほどほどに働き、 ほどほどに遊び、 ほどほどに休む。 それが幸せな生き方だと思う。 でも、それだけだと流石に人生ステップアップしないよな、とも思う。 何か志し、目標、大義のようなものがないと。 自分がどうしたいか。 それは、自分の頭にだけ問いかけても上手くいかない。 なんとなくだが、姿勢が生み出すように思う。 身体が、天と地に一本軸が通った状態。

    • 眠れないから眠くなるまで自由について考えてみた

      今の日本は、大きな枠組みで国民をコントロールしているが、細部はコントロールしていない。 かつて、細部まで国民をコントロールしていた時代があった。 太平洋戦争時の日本だ。 現代でも、学校は服装や髪型の規律がある。 行事の練習では、返事の大きさ、背筋や指先を伸ばすことまで指導される。 国が細部まで個人をコントロールするか、細部は個人の自由にするか。 どちらがよいだろうか。 私自身は、細部を自由にしてもらった方が幸せである。 しかし、個人に自由が発生する代わりに、自分

      • 『ゴジラ-1.0』感想

        『ゴジラ-1.0』を観てきました。 ※ネタバレあり アメリカのアカデミー賞にノミネートされ、話題になっている作品です。 他人が何らかの作品を批評しているのをたまたま目にすると、「じゃあお前が作ってみろよ」といつも思います。 自分には、とても映画を作れないし、批評するなんておこがましです。おこがましいのは、百も承知なのですが、ああだこうだとケチつけたくなるのは、自分がオッサンだからでしょう。 ド素人が鑑賞代を払って、あれはイマイチだったなと批評する。プレイヤーになれない腰抜

        • 君たちはどう生きるか

          最近、仕事に対しての考え方が変わってきた。 以前は、60歳くらいまで働いて、その後は好きなことをして生きようと考えていた。 でも、今は違う。せめて80歳までは働こうと思う。 理由は2つある。 1つは、働かないと身体や脳が衰えるからだ。 一概には言えないが、働かないとおそらくボケやすくなる。 自分の仕事は、高齢者と接する機会が多い。 病院や施設に入所している高齢者をみて、なんとなく悲しい気持ちになる。 認知症や身体が不自由なのは仕方がないが、食事をし、排せつし、寝るだけの生活

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          死について

          5年前、友人が事故で死んだ。 時々、彼のことを思い出す。 今、生きてたら、どうしてたかなと。 友人は死んだ。今、自分は生きている。 死とは何かと考える 友人は5年前に死んだけれど、よく考えてみると、5年前の自分も存在しない。髪も皮膚も骨も、物質的に全部入れ替わっている。 5年前に考えていたことも、今では思い出せない。 そう考えると、5年前の自分も死んでいるのだ。 では、なぜ今、自分は生きているのか。 身体は、細胞がタンパク質を複製して、作り変えている。 いわば、日々生まれ

          死について

          クリエイティブな才能

          クリエイティブに生きたいというか、何かを表現する、そんな人間になりたいと時々思う。 たとえば休みの日に、何かしら文章を書こうとして過ごしてみる。 すると、何も浮かばない。 何も浮かばないけど、うーんと考えてみる。 段々、禅問答みたいになってくる。 何も浮かばない。時間だけが過ぎていく。 そのうち、精神的に疲れてくる。 自己嫌悪に陥る。 自分は何もない空っぽの人間なんだと思う。 次の日、日常に戻り、仕事をする。 仕事をしていると、クリエイティブな人間になろうと

          クリエイティブな才能

          老害について

          近頃、老害という言葉を聞くことが多くなった。 年齢を重ねることについて、どう捉えるかは人それぞれであると思うが、男性と女性では少し異なり、また時代においても異なる気がする。 あくまでも『気がする論』なので、何の根拠もない。 日本では、年功序列という制度が未だに生きている。 年齢が高ければ、社会的地位が高くなる(傾向にある) 特に男性の場合は、会社の中で地位が高くなり、給与も増える。 そして以前は、60歳で定年を迎え引退していた。 現代の日本社会では少子高齢化が進み、超高齢

          老害について

          社会が求める人材について

          自分は今まで、人として頭が良くなろうと努力していた。 教養とか知性とか。 でも、社会が自分に求めていることは、そういうものではないかもしれない。社会が個人に求めているものは、職業人としての存在である。そこに、社会は対価を払っている。人としての頭の良さはどうでもよいのではないか。 社会は個人に、職業人としての技術や知識、経験を求めており、人間性はそこに+αでしか求められていない。 つまり、プロフェッショナルかどうか、きちんとした職人であるかどうかを求めている。 それならばプロ

          社会が求める人材について