読解力2

「型無し」の文章は個性ではない

読解力を鍛えるには「書く」しかない!(4)

前回に続いて「お父さん問題」の添削例を紹介します。前回はこちら。

夏休みのど真ん中に出題したのは、長女、次女も挑戦した定番の問題でした。

インターネットが普及して20年以上経ちました。以下の問いに答えなさい。

問1 インターネットが本やテレビと比べてより便利な点は何ですか。5行でまとめなさい。
問2 インターネットが無かったときと今の生活はどのように変わりましたか。
問3 インターネットやスマホのいい点、悪い点をそれぞれ具体的に挙げて合計20行程度にまとめなさい。

これも解答の幅が広すぎて、「正解のない問題」と言ってよいでしょう。
例によってキモとなるのは問3ですが、今回は「『型無し』は個性ではない」というテーマに沿って、問1、問2の添削過程を詳しく見ていきます。

まずは三女の初稿。

解答1
インターネットの本やテレビと比べて便利な点は、情報を発信するのをより短い時間でできることだ。また、発信する際に、一人の力だけでも発信することができるため、より多くの人から、情報を集められることや、フェイスブックやインスタグラムなどを使って、家族や友達の生活や旅行内容などを知り、自分の生活や旅行内容などに生かすことができることでもある。

解答2
インターネットがなかったときは、何かを調べるときに、誰かに直接聞いたり、辞書を引いたりしていたが、今は、GOOGLEなどで、検索すれば、すぐ調べたいものが見つかるだろう。他にも、誰かを待っているとき、インターネットがなかった時代は、その人の家に行って確かめたり、すれ違いにならないように来るまでずっと待ち続けたりしていた。しかし、今は、LINEや、メッセージで、相手に、来ることができないのか、それとも遅れているのか、遅れているのだとしたら、どれくらい遅れているのかを、聞くことができる。つまり、インターネットが無かったときと今の生活は、人間があまり体力を使ったり、時間を使ったりせず、すぐ情報が届くよう変わったといえるだろう。

文章としてみれば、これはお世辞にもすっきりした出来ではありません。
なのですが、これは同時に、大人では書けない味がある一文でもあります。「子どもの作文」には、話し言葉が混じったり、行ったり来たりしたり、妙な部分でディテールにこだわったり、時には豪快な勘違いがあったりと、何とも言えない味があります。小さい頃の「いいまつがい」やひらがな・カタカナの「鏡文字」の延長線で、ちょっとホッコリする。

この解答だと、この辺りがそうです。

他にも、誰かを待っているとき、インターネットがなかった時代は、その人の家に行って確かめたり、すれ違いにならないように来るまでずっと待ち続けたりしていた。しかし、今は、LINEや、メッセージで、相手に、来ることができないのか、それとも遅れているのか、遅れているのだとしたら、どれくらい遅れているのかを、聞くことができる。

「ネット(=スマホ)がない時代は、外出時にお互い連絡が取りにくく、待ち合わせなどが不便だった」と書けば終わってしまう話を、あーでもない、こーでもない、と説明しているのが、何ともおかしい。

あえて「個性をいったん殺す」理由

昨今は「個性を伸ばす」のが教育のあるべき姿とされるようです。
1980年代に管理教育の強度の高さで悪名高かった愛知県で教育を受けた世代として、この価値観には基本的に賛成します。
ですが、「お父さん問題」の作文講座は、この個性や「子どもらしさ」をいったん殺すことを狙いとしています。ホッコリした文章を読めなくなるのは残念ですが、それが「大人の階段」なのだから、登ってもらうしかない。
作文術における大人の階段とは「型を身につける」、今風にいえばテンプレを覚えることです。

こんな言葉を目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。

型があるから「型破り」になる。型がなければただの「型なし」だ

「言い出しっぺ」は諸説あるようですが、歌舞伎の中村勘三郎さんが「芸」の神髄として繰り返し口にされているフレーズです。
子どもの作文がユニークなのは、それは「子どもっぽい」からです。同じものを大人が書いたら、それは「下手な文章」でしかない。
小説などでそうした文体を意識的に採用する場合もあるでしょう。それはそれこそ「型破り」なのであって、別次元の話です。

論理的な文章、伝わる文章には、明確な「型」があります。
その「型」を身に着けるのが「お父さん問題」の狙いです。
これは書く能力だけでなく、読解力も引き上げます。書く「型」が身に着くと、書き手の立場から文章の流れをとらえて意図をくみ取る力も上がるからです。今風に言うと「読み方がアクティブでインタラクティブになる」といった感じでしょうか。

そうした狙いのもと、私は三女に「子供っぽい部分」を全面削除して、コンパクトにするようリライトを指示しました。
出てきた第2稿がこちらです。

解答1
インターネットの本やテレビと比べて便利な点は、作り手が情報を発信するのをより、少ない時間と手間でできることだ。一人の力だけでも発信することができるため、受け手は、より多くの人から、情報を集められるのだ。例えば、フェイスブックやインスタグラムなどを使って、家族や友達の生活や旅行内容などを知り、自分の行動に生かすことができる。
解答2
インターネットがなかったときは、何かを調べるときに、誰かに直接聞いたり、辞書を引いたりしていたが、今は、GOOGLEなどで、検索すれば、すぐ調べたいものが見つかるだろう。他にも、海外にいる人達と、これまでより、大幅に安い価格で、通話することができるようになったのだ。つまり、インターネットが無かったときと今の生活は、人間が時間や手間をかけずに、すぐ情報が届くよう変わったといえるだろう。

まだ「中学生か高校生ぐらいの文章」という印象は残りますが、子供っぽさがかなり消えているのが分かるでしょう。
同時に、文章から面白みも消えています。
好き嫌いだけなら、私は最初の解答の方が好きです。

高井家では子供が小さいころ、「いいまつがい」や変な文字の書き方はできるだけ放置していました。
どうせ学校に通うようになったら直されてしまうのです。かわいい間違いをさっさと直してしまうなんてもったいない。ちなみに、そのころにの子どもたちの手書きの手紙などは、けっこうな数、大事にとってあります。
連載の最初のころに、「お父さん問題は『フライング』だ」と書きました。
その根っこには「そのうち大人みたいな文章を書くようになってしまうだろうから、子どもらしい作文を書かせておいてもいいんじゃないか」という思いがありました。

今は考えが少し変わりました。
小学校の高学年ぐらい、遅くとも中学1~2年のうちには、何らかの形で「書く力」と「読む力」を底上げする、大人の階段を登る過程を踏んだ方が良いのではないだろうかと思うようになったのです。
これは新井紀子氏の「AI vs 教科書の読めない子どもたち」の影響です。
新井氏の調査によると、中学から高校にかけて大半の生徒の読解力は高まりますが、それはおそらく自然な成長に伴うもので、学校や家庭内の教育、あるいは勉強や読書など子どもの生活習慣ともはっきりした相関は見られないそうです。
つまり、「学校では読解力を高める教育はしてくれない」ということであり、また「『読解力』は、本を読んでいればそのうち身に着く」というものでもないわけです。

理系本の効用

私自身は、自分が読解力を身に着けたプロセスを明確に覚えていません。
小さなころから本好きでしたが、雑多な読書で「面白いから物語を読む」というだけの少年でした。
「読解力の足しになったのかも」と思い当たるのは、この投稿で紹介した理系本を読み漁った経験です。

このラインアップの冒頭で紹介した故・都築卓司先生の名著「10歳からの相対性理論」との出会いが、私の「本の読み方」の転機になりました。
自分の文章を引用するのは妙な気分ですが、上記投稿の当該箇所を引きます。

「10歳からの」とあるのだから、中学生でも読めるんだろうと信じて速攻でレジに行き、帰りの電車で読みふけった。帰宅してから2階で寝転がって一気読みし、すぐさま最初のページに戻って斜め読み気味に再読した。自分の理解度を確認するためだ。
ちなみに、これ以降、この「読了→即、再読」は、最高の本に出会った時の私の癖になった。

読了したときの興奮も鮮明に覚えている。
これまたほほえましいのだが、母や兄をつかまえて相対性理論の概要をまくしたてたのだ。反応は「完全スルー」に近かったが、とにかく誰かに新しく知った「真実」をシェアしたかった。本を読んでそんな気持ちになったのは初めてだった。
家族の反応は薄かったのだが、この経験はその後の私の読書の姿勢を大きく変えた。
本を読んでいる最中から、「この内容を自分の言葉で他人に説明できるだろうか」と自分の理解度を確かめるようになった。
読みながら「こう説明すれば伝わるな」とシミュレーションし、「ここがポイントだ」と思えばファクトやデータを暗記するよう心掛ける。そして読み終わったらすぐ、誰かに「まあ聞けや。こんな面白い本を読んだんやけど…」とプレゼン(?)をするようになった。
これは、本で得た知識を「我が物」にする最高の方法の1つだろう。読書術のノウハウ本でもちょいちょい紹介される手法だ。
私の場合は単に「俺の話を聞いてくれ!」という欲求から身についた長年の癖でしかないのだが。

この後、私は地元の図書館に並んでいる講談社のBLUE BACKSを片っ端から読みました。
理系本は性質上、論理的文章の宝庫であり、同時に「理屈は通っているのに伝わらない文章」の宝庫でもあります。
都築先生のような書き手は例外で、文章力がいまひとつで読み解くのに一苦労する本が少なくないのです。
中学生や高校生では、理解できないのが自分の知的レベルのせいなのか、書き手の説明力不足なのか、判断できません。
私は「分からないことがあるとイライラする」という人間です。この性格と悪文のコンビネーションのおかげで、「こういう意味なんだろうな」と大意をつかむまで繰り返し読みこむ「訓練」を重ねることになりました。
ちなみにその後、理系本の読書は徐々に「海外モノ」に偏るようになっていきました。書き手の厚みの違いか、翻訳という壁を超えてもなお「伝わる文章」としての質は、海外のライターの方が高いように思います。

「つまらない文章」を書くのが第一歩

問1と問2の私の模範解答はこんなものでした。

解答1
インターネットの本やテレビと比べて便利な点は、作り手が情報をより少ない時間と手間で発信できることだ。一人だけでも発信できるため、受け手は、より多くの人から、情報を集められる。例えばいろいろな専門家がネットに流している情報を得たり、家族や友達のフェイスブックやインスタグラムなどから生活や旅行内容などを知ったりできる。それを自分の行動に生かすこともできる。
解答2
インターネットがなかったときは、何かを調べるときに誰かに直接聞いたり、辞書や本で調べたりしていた。今は、GOOGLEなどで検索すれば、すぐに調べたいものが見つかることが多いだろう。他にも、海外にいる人達と、これまでより大幅に安い価格で通話やメールのやり取りができるようになった。つまり、インターネットが無かったときと今の生活は、人間が時間や手間をかけずにすぐ情報が届くよう変わったといえるだろう。

「三女の意見の骨格は変えない」という基本方針のもとで、字句や順序を整理しています。今読み返しても、実につまらない文章です。
しかし、それが「型」というものなのです。
内容の絞り方に多少の幅がありますが、これはテンプレもいいところの、凡庸な文章です。裏返すとそれは「『お約束』を守った意味の通る文章」なわけです。

「子どもの個性を殺して良いのか」という疑問もあるでしょう。
しかし、「型=凡庸」を身に着け、他人の文章を消化できるようになったその先にしか、意味のある個性は花開かないと私は考えます。
繰り返しになりますが、「型」がなければ「型無し」でしかありません。「型破り=個性」はその先にあります。

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