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【明清交代人物録】フランソワ・カロン(その五)

フランソワ・カロンは日本に関する名著をものしています。日本語訳では「日本大王国志」と訳され、平凡社東洋文庫の一冊となっています。この本が記された事情と、そのヨーロッパへの影響に簡単に触れます。この本に書かれているフランソワ・カロンの紹介文は、この記事のネタでもあります。

興味のある方は、大きな図書館になら置いてあると思いますので、探して読んでみてください。


オランダ東インド会社の近代性

オランダ東インド会社は、近代的な会社組織の走りと言われています。複数の組織がリスク分散のために、共同して投資する株式会社、このシステムがオランダの各都市の会社により採用されます。
このような仕組みになったのは、オランダ国内の各都市が競争していたのでは、お互いに足の引っ張り合いをしてしまい、オランダの国としての利益の最大化を図れないとして、国が号令をかけたという面があります。このような,経済活動を有利に運ぶというのが、世界に先駆けて株式会社という組織を発明した動機なんですね。

この共同で一つの会社に投資する組織であることから、様々な特徴が現れてきます。

文書による報告義務と、情報の共有化

オランダ東インド会社の特徴の一つに、たくさんの報告書が残されていることがあります。そのためにたくさんの歴史家がこの資料群を整理分析して、様々な研究書を著しています。
この様にたくさんの資料が残されているのは、オランダの本部に対して、バタヴィアの本部や各商館からの報告書の義務があったからです。組織の中央で世界に散らばっている商売の現状を的確に把握する。そういうマクロな取り組みの中で、この様な報告書が作成されています。

この様な報告書の作成が義務付けられていたのは、この時代ではオランダ東インド会社に先立っては、カトリックのイエズス会組織ぐらいだったのではないでしょうか。そのため、この二つの組織の報告書は歴史資料として重要視されています。そして、このような世界的な情報共有ができていたということが、これらの組織の強みでもあったのだろうと考えています。

財務関係の報告

オランダ東インド会社がイエズス会と比べて優れていた点があります。それは会社組織として、財務の記録を残していることです。
この会計業務に関わる、簿記の技術というのはイスラム世界で開発されたものが、ヨーロッパにヴェネツィア経由で伝わったとされています。16世紀までの段階では、イスラム世界とヨーロッパをつなぐのはイタリアのヴェネツィアが主な窓口でした。この時代、ヨーロッパで商業文化が最も進んでいたのが、ヴェネツィアであり、そのためにイギリスで「ベニスの商人」というタイトルの戯曲が書かれていたりするわけです。

そして,この商業的な文化を17世紀に引き継いで世界的に発展させたのがオランダになります。ですので、彼らの報告書には、商品の仕入れや売買、などの商業活動に関わる内容もふんだんに盛り込まれています。

この様な現代の多国籍企業の企業文化につながる様な営みが行われていたのが、オランダ東インド会社という組織でした。

日本に関する報告書

フランソワ・カロンの「日本大王国紀」は、そもそもこの様なタイトルのものではありませんでした。これは、オランダ東インド会社の中央から、日本に関する報告をまとめろという指示があり、質問を提示され、それに沿って作成された報告書でした。書籍として発行するのが目的ではなく、会社内でのメモランダム、後継者に対して日本はどのような国かを伝えるための資料として作成された訳です。
そのような実務的な報告としてこの本を理解すると、面白いことが分かります。例えば、人間関係をどの様に構築するか、将軍と各大名の関係、日本人の国民性など実際に面と向かって交渉を行う事を想定して書いています。そして、これは彼の個人的な日本人理解で、この時点で彼に勝る人材はいないとオランダ東インド会社は判断していたのでしょう。
そのようなノウハウを詰め込んだ報告書なわけです。

31の設問

「大日本王国志」の内容を詳しく紹介することは省きますが、31の設問を箇条書きのまま紹介します。

オランダ東インド会社の商務総監フィリップス・ラカスに求められた報告がこの様なものであったということです。これは,まるで現代の会社組織のあり方と同じですね。優秀な会社員は,設問に沿って過不足なく報告を提出します。

  1. 日本国の大きさは如何に、また日本は島嶼なりや

  2. 如何に多くの州を含むか

  3. 日本における最上支配者の有する特質と権力とは如何に

  4. 陛下は如何なる住所・地位及び行列を有するか

  5. 兵員の員数と彼らの武器

  6. 顧問官及び臣下の権力

  7. 諸侯及び領主の特質とその勢力

  8. 彼らの収入は如何に、またその収入は何よりなるか

  9. 処刑の方法は如何に

  10. 如何なる罪科が厳罰に処せられるか

  11. 住民は如何なる宗教を奉ずるか

  12. 如何なる寺院を有するか

  13. 如何なる僧侶を有するか

  14. 如何なる宗派を信ずるか

  15. ローマ派耶蘇教徒の迫害

  16. 如何なる家屋に住し、如何なる建具を使用するか

  17. 何を以ってまた如何に来客を接待するか

  18. 結婚生活について

  19. 子供の教育

  20. 遺言なき時の相続は如何に

  21. 国民は信用すべきか、すべからざるか

  22. その国にては如何なる貿易が如何なる国民によって行わるるか

  23. 如何なる内地商業及び外国航海を有するか

  24. 商業の利益

  25. 外国との交際

  26. 日本の物産

  27. 貨幣及び度量衡

  28. 鳥獣類

  29. 鉱泉

  30. 如何に国王・諸侯・領主及び貴族は陛下に謁見するか、彼らは如何なる行列を有するか

  31. 彼らの言語・写字・計算の方法、子孫に歴史を公開するか

設問21:国民は信用すべきか、すべからざるか

僕の気になったこの設問についてのみ、カロンの回答を記載します。
「この国民は信用すべしと認められる。彼らは第一の目的である名誉に邁進する。また恥を知るを以って漫に他を害うことはない。彼らは名誉を維持するためには悦んで生命を捨てる。」
これがカロンの日本人に対する評です。40年に渡って交渉を続けた異民族に対して、彼はこの様に考えていたのですね。ピーテル・ノイツが日本人に対して傲慢な態度をとって恨みをかったのと比べると、価値観は異なるながらも、尊敬の念を持って対応していたのでしょう。

フランソワ・カロンの知識の源泉

これらの設問に対し、フランソワ・カロンはどのように回答を考えたのでしょう。
幕末に同じように日本に対する報告を書いた人物にフランツ・フォン・シーボルトがいます。彼が書いた報告書は、多くの日本人蘭学者の協力を得て作成されています。このシーボルトと比べると実に200年も遡るカロンの時代と状況では、情報のソースは非常に限られていたと考えられます。

具体的には、彼自身の知見、彼の家族からの知見。そして、他のオランダ東インド会社職員や、関係の深かった平戸藩からの情報などが考えられるでしょうか。江戸幕府内には、彼の味方となってくれそうな人材は見当たりません。この様なニュースソースにあたって、出来るだけコンパクトに日本の状況を紹介することになったのだと思われます。
そして,それがこの本の限界であり、事実認識の間違いがある理由なのでしょう。

ヨーロッパの日本理解の基礎的書物となった

この本の元々のタイトルは「強き王国日本の正しい記事」だそうです。カロンの認識では、日本は"強き王国"だったのですね。

そして、この書物は1645年に、書籍化され発売されました。執筆されたのは1636年のことなので、9年後のことです。そして、その後オランダ語版が増刷して出版を重ねたばかりでなく、英語・ドイツ語・フランス語・ラテン語にも訳され出版されました。当時のヨーロッパにとって、遥か東に離れた謎の国日本に対して,それほどまでに関心が持たれていたということでしょう。

この日本に対する手引き書という役割は、幕末に日本が準開国となり、さまざまな人物の日本に対する記事が報告されるまで続きます。
カロンは自らの著作がその様に、ヨーロッパ全土に利用されることになるとは考えていなかったでしょう。事務的な処理の一環としてこの報告を書いたはずです。しかし,彼の日本に対する理解と情報は、鎖国の200年間、唯一の日本に対する信頼できる報告として利用され続けました。

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