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【読書録】スコット『ゾミア:脱国家の世界史』自ら「野蛮」化した人々

めちゃくちゃ面白い本を読んだ。
きっかけは「ゆる言語学ラジオ」で紹介されていたことだ。

正直なところ文字通り二番煎じであるが、自分のアウトプットも兼ねてつらつらと書いていきたい。
この後、これを踏まえて発展的考察を行う。気が向いたら。


『ゾミア』の面白さ

そもそも「ゾミア」とは何か。
「ゾミア」は中国南部、インド北東部、東南アジア大陸部などを含む丘陵地帯の総称、つまり地域名のことだ。ゾミアに住む人々は、いわゆる原始的な生活をしている山地民である。

私たちの多くは、大まかに「狩猟採集→定住型農業→産業型農業」という流れを学校で学び、この順序は人間や文明の単線的な発展として語られる。
これに従えば、狩猟採集をしている人々は我々の先祖であり、文明化以前の人々となる。

端的に言えば、著者ジェームズ・C・スコットはこの通説に反論している。「はじめに」の象徴的な文章を引用しよう。

遊牧、採集、移動耕作、分節リネージ組織といった一連の慣習は、往々にして「事後的な適応」であり、意図的に選ばれた「自己野蛮化」の結果といえるものだ。それは、居住場所、生業手段、社会構造を、国家からの逃避という目的の下で巧妙に調整した結果なのである。

「はじめに」x項.

注釈

ジェームズ・C・スコット(著)、佐藤仁(監訳)『ゾミア:脱国家の世界史』(みすず書房、2013年).

著者スコットは、「アナーキズム史観」の政治学者・人類学者(イェール大学)です。
この本は「歴史のない人々の歴史」を書いていることもあり、特に実証を重んずる人々からは批判も少なくありません。「事実と事実を想像で結びつけ、結論ありきで論を展開している」という類のものです。
一方で評価の声も大きく、歴史家の中でもスコットの業績を讃える声は多く上がります。また、本の中でスコットも認めているように、引用のある学説は既に歴史家や人類学者によって論証されているものがほとんどであり、彼の独りよがりな論というよりは、これまでの学説の再構成ともいえると思います。

また、『ゾミア』で展開される主張は戦後の世界には当てはまらないことはスコットも認めています。技術の発展した現代世界では、もはや国家の支配には抗えないためです。
その辺りを頭に入れていただければ。
なお、読みやすさの観点から出典のページは最小限にとどめています。

あなたが支配者だったら

『ゾミア』のII章は「あなたが支配者であった場合、どのような生態環境、人口構成、地理的条件の組み合わせが好ましいか」という問いから始まる。つまり、理想的な収奪の空間をデザインせよという課題である。
あなたならどうするだろうか。一度考えてみてほしい。

最も重要なことは、国の中心部に耕作地と民を集中させることだという。
支配者は農民に養ってもらえないと生きていけないからである。輸送コストの高い前近代は特に、地理的集中は不可欠なのだ。

この目的に最も適する作物は、水稲だった。その理由は、大きく以下の4つにまとめられる。

  1. 単位面積あたりの収量が圧倒的。

  2. 永続的で収穫が比較的安定している。

  3. 大規模な労働力が必要になるため、人口の集中と権力が必要。

  4. 収穫時期が一斉・一定で予測が容易なため、徴収しやすい。

1.2は当然として、より重要なのは3と4である。
人口の集中と労働の集約は、安定した国家の運営・管理に必須とされる。労働管理のための権力関係が永続化すると、そこに階層が生まれ、余剰生産によって格差が生まれる。さらには何代にも渡って労働力を捧げれば捧げるほど、移住して一からやり直すことには躊躇うようになっていく。 また、兵器の技術革命以前、軍事力は兵士の数に強く依存していたため、労働力はやはり欠かせないのだ。

4について、この本では「読みやすい」「掌握しやすい」などの語が頻出する。これらは"legible"という語を文脈に合わせて訳しているという(「あとがき」より)。 「読みやすさ」は、「支配しやすさ」とも読み替えられよう。この意味で、水稲は国家が民を収奪するのに極めて都合の良い作物であったと言える。

理想的な従属民とは、集住して恒久的な穀物畑を耕作する民であり、
(中略) こうした人々と稲田は国家にとって掌握しやすく、税や徴兵を課すことができるうえに、手ごろな距離にある土地に固定できた。

66項.

支配に抵抗するために

『ゾミア』の原題は、"The Art of Not Being Governed: An Anarchist History of Upland Southeast Asia"(統治されない技術)となっている。まさに、これまで見てきた支配者の施策からいかにして抜け出すかということが、この本のテーマである。


研究手法
冒頭の「注釈」で述べたように、研究対象であるゾミアの民は文字資料を残していない。そのため、古代の行動様式を完全に証明することは不可能に近いが、スコットは記録のある現代の出来事をアナロジーとして用いている。
それが、ビルマ軍事政権に対するカレンの抵抗である。
カレンの人々は、軍事政権が作った住民を隔離し搾取する軍用地から逃げ、抵抗を試みた。スコットは、この行動様式が彼の唱える説と合致することを説得材料として利用している。


国家の支配に抵抗するためにゾミアの民が編み出した術をまとめると、4つの観点に分類できる。

  1. 場所:地形の障壁が高く険しく、人を寄せ付けない。

  2. 農業:収穫期が一定でなく、耕作地を移すことが容易。

  3. 居住:動き回りやすい居住形態。

  4. 社会:流動的で特定の指導者を持たない社会構造。

本に出てくる象徴的な語は、「変幻自在」「順応性」「流動性」「機敏さ」あたりだろうか。まさに「読みやすさ」の反対にある概念である。

場所と居住は言わずもがな、農業は、言い換えれば移動耕作や焼畑農業がそれに当たる。 「逃避作物」としては、トウモロコシやイモ類などが挙げられている。 水稲とは逆に「生育期間が短くバラバラ」「保存が利く」「乾燥地域や高地、斜面でも栽培可能」「労働に対する生産性が高い」などが特徴だ。 ※農業についての詳細は、別のnoteを鋭意構想中である。

4.社会についても、スコットは多くの分量を割いて論証を行っている。 まず「部族」という概念について、スコットは以下のように定義している。

部族は国家に先立って存在するわけではない。部族は、むしろ国家との関係で定義されるひとつの社会的形式である。

208-209項.

できるだけ支配領域を広げたい国家にとっては、交渉や統治のためにも「安定的で信頼でき、階層化されている『把握しやすい』社会構造」(209)が管理のためには望ましい。言い換えれば、支配しやすいのは、リーダーのもとで秩序だった組織を持つ部族ということになる。

しかし、ゾミアの民の社会関係は流動的であり、階層的な首長制は否定される。実際にグラムオ・カチンと呼ばれる人々には、突出したリーダーたちが退位させられたり暗殺されたりしてきた歴史がある。また「イカロスの翼」のように、自らが秀でようとすることに対して警鐘を鳴らす物語は多くの部族で共有されている。彼らの間では、極端なまでに平等主義が徹底されているのだという。

国家からすると、権力が集中すればするほど、把握しやすく掌握しやすい部族となっていく。同様の理由で、知識の集積を避ける傾向にもあるという。文字や歴史を持たないことも、特定の立場を避け文化的柔軟性を持つためという解釈も展開されている。
リーダーや中心を持たない相手を管理・支配することが困難を極めることは想像に難くない。

スコットは、「結論」にて以下のようにまとめている。

山の民は、何々以前(プレ)の状態にあるわけではない。彼らの生き方はむしろ、以後(ポスト)、つまり灌漑水田以後、定住以後、支配対象以後、そしてもしかすると識字以後といったほうがよい。彼らは権力に反発して意図的に国家なき状態を作り出した人々であり、自ら国家の手中に陥らないように注意しながらも諸国家からなる世界にうまく順応してきた人々なのである。

343項.

まとめと感想

文明と野蛮

この本にある数多くのテーマの中でも特に重要なものが「文明」と「野蛮」という概念だ。

(文明化とは)実質的には、国家に完全に統合され登録され、課税対象になることとほとんど同じである。対照的に、「非文明」的とは国家の領域の外で暮らすことである。

100項.

だれが文明人で、だれが未開人であるかを見分けるための座標軸は、結局、国家によって収奪のしやすい農業生態的な条件にあるかどうかにすぎないのである。

342項.

スコットに言わせれば、文明とは国家の管理しやすい社会であり、野蛮とは国家支配から逃れようとする人々のことなのである。

文明と歴史

実際に「文明」から「野蛮」への「逆行」も、歴史的に確認されている。この点に引っかかる人も少なくないと思われるため、一つ例を紹介したい。

有名な説として、中国の万里の長城は、外敵からの防衛もさることながら、中国文明から離脱しようとする人々を逃さないという目的もあったとも言われている。 ウィリアム・ロウによると、歴史的なデータを集めると、中国文明に同化した原住民よりも、原住民に同化した中国人の数のほうが圧倒的に多いことが明らかになった。 しかし、こうした「逆行」という不都合な事実は、文明の公的な歴史には含まれない。

「穀物の集積や人口の集中によって文明を発達させ、強い国家をつくった」という語りは、社会進化論や唯物史観にフィットするし、国家の物語にも親和性が高い。しかしこの史観は、「我々の文明」におけるものであり、あくまで我々の史観に過ぎないのかもしれない。

ここで提唱された説をどのように受け止めるから人それぞれだが、『ゾミア』が世界史おける新たな見方を提供してくれたことは疑いようもない功績だと思う。

ゾミアのすゝめ

この文章は本の流れを単純化しているし、紹介できた観点・根拠はごくごく一部に過ぎない。興味が湧いた人はぜひ手に取ってみることをおすすめする。
旅に持っていけば、枕にもちょうどいいサイズである。
いかにもただの本ではない装丁とタイトルであるため、ともすれば国家転覆を怪しまれることについては一切の責任を負いかねますこと、ご了承ください。

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