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【読書録】逢坂冬馬『歌われなかった海賊へ』

※後半、ゴリゴリにネタバレをします。

私は逢坂冬馬さんの小説が好きだ。2冊しか読んだことないし、2冊しか世に出てないけど。

2022年3月、前作『同志少女よ、敵を撃て』という本を読んだ。その頃私はロシア語を学び始め、ロシアはウクライナに侵攻した。なかば必然かのように本を手に取り読み始めたが、これがまあ面白い。その後1年間は本のおすすめを聞かれたら迷いなく薦めていたほどだ。
ストーリーや人物が魅力的なのはさることながら、内面の筆致がすごいし物語の皮肉も感じさせる。何より、「独ソ戦に狙撃兵として参加した少女たち」という題材がおもろすぎる。もう少し続けてしまうとおもろいしか言えなくなってしまうのでこの辺りにしておこう。
ぜひ手に取っていただきたい一冊である。

と、今回は『同志少女』の話ではない。
逢坂さんの2冊目、『歌われなかった海賊へ』である。第二次世界大戦末期のドイツが舞台だ。
私は著者を追っかけることはあまりしない(というよりする体力がない)のだが、「この人なら前作も多くないしギリ追っかけれる!」というミーハー心も手伝い、購入に至った。

とはいえ正直、「ナチかあ」とは思ってしまった。イタいファン特有の独占欲からか、話題になりやすいナチス・ドイツ期のものはあまり気が進まなかった。どうせ分りやすいところを切り取られて安っぽくされてしまうんじゃないかという身の程知らずの心配をしたりもした。

しかしやはり、面白いことに変わりはなかった。
やっぱり題材がすごい。「語られない人々」といったテーマを持っているのか知らないが、切り口がすごい。歴史をやっている人間としても、ネタとしてもすごいし見せ方もすごいと思う。すごいしか言えていない。作家の表現力というのはすごいものだ。あ。

さて、ようやく錦木ばりに重い腰を上げて内容に入っていこうと思うが、その前にここまでお読みいただいた方々に一言申し上げたい。いいから読んでくれ。

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ここから盛大なネタバレというか内容に触れるので、ぜひ読むのを堪えてamazonでポチっていただきたい。というか、あらすじを述べたりはしないので、分かりにくくても許してほしい。分かりたかったら読んでくれ。そんな長くないし。
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多くの事柄に触れすぎるのも野暮であるため、2つだけに絞りたい。
ひとつは、ナチスの性質について、もうひとつは、「共感」についてだ。

ナチスと人々

まず、この小説はナチス・ドイツ下の状況を「普通の人々」観点からとてもよく表していると思う。私は残念ながらその時代のドイツにいた訳ではなく、少し本を読んだことがある程度の人間だから無責任なことは言えないけど。たぶんよく取り上げられることになるのもここなんだと思う。

街の人々も、教師も、看守も、何か良からぬことが起きていることは間違いなく知っているのだ。というよりむしろ、何が起きているのかも知っている。それにもかかわらず、彼らは「喜んで騙され」続けていた。
ここが、ナチスの支配についてよく言われることな気がする。アーレントが読みかけだなあとか想起してしまう。

私が最も恐ろしさを覚えたのは、次の一節だ。収容所から脱獄した連合国兵が、収容所でどのように働かされていたのかを語る。
彼らは、軍が軍靴の性能をチェックするため、ただひたすらに、歩かされていた。

なぜかといえば、ドイツ軍は軍靴の性能、それを履く人間の足の性能を知りたいからです。軍隊に納入する軍靴はどの程度の行進に耐えられるのか。軍隊と同じ重さの荷物を背負って、どの程度歩けば、疲労を感じるのか。どの程度歩けば、靴擦れが起きるのか。さらにどの程度歩けば、足から血が出るのか。そしてさらにどれだけ歩けば足が限界に達して歩けなくなるのか。どれほど歩けば人間として使い物にならなくなるのか。

休もうとするものは看守に殴打される。

なぜか知りませんが、そんなときに監視兵たちはいつも笑っていました。彼らがサディスティックだからというより、笑っていないと残酷になれない、互いに笑いあうことによって自分たちがしていることは、嘘なのだ、と考えているようでした。

人々は限界まで歩かせられ、悪化していく結果を観察される。労働不能になった人はトラックに乗せられ運ばれていく。

ナチスの人種政策は、「科学的」である。優生学という「科学」のもとで最も優れた「アーリア人」が称揚され、「不出来」なユダヤ人、同性愛者、少数民族、障害者は迫害された。

上記2つの引用からは、人々の内面に入り込んだナチズムと、「科学的」で「生産的」な考え方が見て取れる。

分かり合えないということ

このテーマが私にどストライクであった。

今更登場人物の紹介をするのがオワっているが、ついに必要になってしまったので少し紹介させていただく。
エーデルヴァイス海賊団は、レオンハルト(ウハウハ靴メーカーの坊ちゃん)、エルフリーデ(偉い将校の娘で音楽の才あり)、ドクトル(爆弾バカ)、それに主人公のヴェルナーの4人で構成される。レオンハルトとエルフリーデに誘われヴェルナーが加入し、道中でドクトルが加わったという格好だ。

レオンハルトによると、エーデルヴァイス海賊団にはふたつのルールがある。

ひとつ、エーデルヴァイス海賊団は高邁な理想を持たない。ただ自分たちの好きなように生きる。ひとつ、エーデルヴァイス海賊団は助け合わない。何が起きても自分で責任を取る。

エーデルヴァイス海賊団は高邁な理想を持たない。ドイツの解放を目指してもいなければ、正義であろうともしていない。彼らは自分たちがやりたいように「遊んでいる」のである。

しかし、それは彼らの言い分に過ぎない。ナチス・ドイツやヒトラー・ユーゲントからすればただの反乱分子であるし、その敵の連合軍からすれば応援すべきレジスタンスである。

イギリスのラジオは、彼らを以下のように形容する。

「…エーデルヴァイス海賊団、大胆不敵にもヒトラー・ユーゲントに戦いを挑み、レジスタンスとして戦う彼らは今や、ドイツにおける唯一の民主化勢力といっても過言ではありません。ナチス独裁体制を打倒すべく、自由と民主主義の理想に向けて戦う彼らの徽章は、その名の通りエーデルヴァイス。彼ら若き自由の戦士の存在は、ナチスの独裁者にとっては忌々しいものでありますが、ドイツ人にとっては希望であります。そして彼らは、戦後ドイツの礎を築いていくことでしょう!」

当事者である少年少女はこの放送を聞いて吹き出し、笑いあった。

「私たちはそんなんじゃないのに、どうしてみんな、自分の都合で分かろうとするんだろうね」

ドイツ国民がすべて一体でないのと同じように、エーデルヴァイス海賊団も決して一体ではないのである。それでも人は分かろうとしてしまう。

ドイツは、「ペンキで塗りつぶされたように」後世に語られる。プロパガンダ映像からは、全国民が熱狂的にヒトラーを支持し、ナチスは国民の完全な支持のもとで政権を取り戦争を戦ったように見える。

それでも、と、エルフリーデは語る。

私たしは、ドイツを単色のペンキで塗りつぶそうとする連中にそれをさせない。黒も、赤も、紫も黄色も、もちろんピンクの色もぶちまける。私たちは、単色を成立させない、色とりどりの汚れだよ。あいつらが若者に均質な理想像を押しつけるなら、私たちがそこにいることで、そしてそれが組織として成立していること、ただそのことによってあいつらの理想像を阻止することができるんだ。私たちは、バラバラでいることを目指して集団でいる。だから内部が単色になることもなければ、なってはいけないし、調和する必要もないんだ

引用が多くて恐縮だが、最後にひとつだけ。

人が受け取ることのできる他人のあり方などほんの断片であり、一個人の持つ複雑な内面の全てを推し量ることなど決してできない。
しかしそれができないと分かっていながら、人は、自分が受け取った他人の、断片化された一面をかき集め、空白を想像で埋め、矛盾のなさそうな「その人らしきもの」の像を組み立てる。そして自らの作り上げた虚像を眺めることで、他人を理解したつもりになる。

人って勝手に期待をして勝手に失望していく生き物なんだなあとしばしば思う。だから人は見たくない一面を見たら怒るし、「理想」っぽい人がスキャンダルを起こしたとき、なぜか裏切られたと感じて叩く人が出てくる。

そんな俗世的なことに引き付けて考えてしまった私も断罪されるべきでしょうか。

これを即飲み込むということは本末転倒になるんだけど、それでも言わせてほしい。
わかるわあ。

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