見出し画像

#108. 和訳で大事にしていること

チャンネルの登録者数が 1 万を超えた。元はこの note から始まった和訳も、YouTube という次の舞台で、ようやくひとつの大台を突破したような気がして嬉しい。

不定期更新なうえに、曲のジャンルやテイストにもさほど統一感のない、ある種気まぐれなチャンネルだが、それでもこんなに多くの人に「このチャンネルの動画なら、まあ観てやるか」と思ってもらえているというのは、素直に喜ばしいことである。

さて、開設から数年が経ち、動画の数もそこそこ増え、チャンネル自体いろんな意味で熟してきたので、ここらでひとつ「和訳の際に気をつけていること」について記事を書いてみようかと思う。

というのも、以前チャンネルを始めて間もないころに、「ここで訳した曲のプレイリストを作ってほしい」との声があり、『 Sky-candle の和訳』と題して、ただ訳した曲を並べただけのプレイリストを作ったのだが、実はこのなんの変哲もないプレイリストが、いまのところ(リストとしては)いちばん人気なのである。

一部の視聴者は、Sky-candle というチャンネルの訳に、ほかの和訳とは違うなにかを感じてくれているのかもしれない。

実際、大半の人が思っている以上に時間と労力をかけて、またいろんなところにこだわりながら訳しているので、動画のコメント欄でその訳を褒めてもらえると、いつも心で小躍りしている。

そこで今回は、ぼくが歌詞を和訳するとき常に心がけていることを 5 つ紹介してみたい。最終的にすこし長くなってしまったのだが、それだけ多くのことに気を割いて慎重に訳を作っているということなので、ぜひ読んでいただけるとありがたい。

ただし注意していただきたいのは、ぼくは英語でお金をもらう仕事をしているので、その点で見れば「英語のプロ」かもしれないが、それでも「翻訳のプロ」ではない。

なので、これから書くことは「和訳の際に〈だれもが〉気をつける〈べき〉こと」ではないので、そこはどうか、誤解なきようお願いしたい。



1. その曲がたまらなく好きか

まずはやっぱりなんといっても、「その曲がたまらなく好きか」という点は欠かせない。

ぼくがこれまでチャンネル内で訳した曲は、どれも本当に大好きで、どれだけ聴いていても飽きない。たまに「訳した曲で、どの曲がとくにオススメですか」と聞かれるが、そんなの全部に決まっている。

自分が聴いて「いい」と思えない曲や、はじめは「いい」と思えても、数回聴いただけで飽きてしまうような曲を、自分以外の人が飽きずに聴いてくれるとは思えない。いくら世間的に話題になっていようとも、自分の好みじゃなければ絶対訳さないと心に決めている。

それに、10 回、20 回、30 回と、歌詞に描かれた場面や心情を思い浮かべながら繰り返し聴いて、はじめてひらめく訳がある。これから下で挙げていく条件を漏れなく満たす「いい訳」が思いつくまでに、100 回以上曲を聴かなければならないことも少なくない。

だから、結果動画としてチャンネルにアップされたあの曲たちは、「それだけ聴いても飽きずに聴いていられた曲」ということになる。最初に和訳を出した曲から最新のものまで、どれも漏れなく、胸を張って人にオススメできる「大好きな曲」だ。

それだけに、再生回数が伸び悩んだりしていると、「……こんなにいい曲なのになぁ」と、すこし気持ちが沈むことさえあるのは内緒だ。


2. 原曲の伝えたいものが伝わる訳か

次に、「原曲に込められたメッセージがしっかり伝わる訳であるか」というのも非常に重要だ。

著名なアーティストたちが手間暇かけて作った曲を、(ある意味本人の許可もなく)和訳して多数に伝えるのだから、訳者にはその分「原曲で歌い手が伝えたかったものを(できるかぎり)そのまま伝える」という責務がある。

「ぼくの/わたしの知らないところで勝手に曲を広めるんなら、せめて曲に込めたメッセージくらい、しっかり汲んで訳してくださいよ」という声が、訳を考える際、常に脳内で流れている。

だから、まず歌詞の英語はしっかり理解できていなければならないし、それだけではなく、その表現の裏にどんな気持ちが込められているのか把握するため、アーティスト本人が曲について語った記事を読んだり、インタビュー映像を観るという工程も欠かせない。

たとえば、Charlie Puth が 2022 年に出したアルバムの中に『I Don't Think That I Like Her』(直訳:彼女のことはもう好きじゃないと思う)という曲がある。

タイトルにもなっているこの印象的なフレーズは、以下に示すチャーリー本人の説明を読んでも明らかなように、好きな女性に相手にしてもらえなかった男が、まだその人を好きでいるのに「彼女のことなんかもう、好きじゃないんだからな」と強がって言っているだけの台詞である。

解説の 3 行目「僕は〜」以降を読むとわかる

歌詞の文字通りの意味と本当の意味とが正反対であるため、曲についてあまり調べずにいると、すぐに誤訳をしてしまうだろう。

しかし実際 YouTube では、この部分を「もう俺はこれ以上彼女を好きでいられない」という(まるで、男の方が彼女に愛想を尽かしたかのような)真逆の訳をしている動画が数百万回も再生されており、歌い手本人の意思とはかけ離れたニュアンスで曲が拡まっていく恐さを感じる。

無理難題だとわかっているが、やはりすべての楽曲に、公式訳がつくのが理想だと思う。

解釈の方向性が合っているなら、こういった(公式以外の)訳が拡まっても全くかまわないのだが、実情として、曲解されたものであってもバズっているようなところがあり、それに対してはいつも複雑な気持ちになっている。訳の精度と再生回数は、全くもって比例していないのが現状だ。

以前、上のとはまた別の動画で、「そういう訳だと、歌い手の意味するところと違ってしまいます」と指摘してみたら、「解釈の違いだ。受け入れろ」という旨の反論を(そのチャンネルの信者らしき人たちから)受けたことがある。

もちろん、曲に関する説明が作り手側から一切なく、「どちらの解釈もありえるよね」という場合であれば、いろんな解釈が受け入れられるべきである。だが本人からしっかり説明があった場合にはやはり、訳者はあくまで「曲を作った人の解釈」に忠実であるべきだろう。

でないとそれは、原曲とは別の、「訳したその人のオリジナル楽曲」になってしまうからだ。プロが時間をかけて書いた歌詞の真意を、素人が勝手に捻じ曲げていい道理などない。

もちろん、言葉を換えている以上、そっくりそのままメッセージを変換するのは不可能なので、ある程度、訳者の解釈による創作要素が入ってしまうのは間違いないが、それでもそれは最小限に留めたい。


3. 読んでいて絵が浮かぶ訳か

「歌詞よりなにより、ノリとテンポが一番大事」という曲をのぞけば、きほん曲には「物語(ストーリー)」がいつも付きものである。

全編通してひとつの話になっているようなものもあれば、断片的な回想として、過去の失恋や別れの場面、なにげない会話などが差しはさまれることもある。歌詞で描かれたその手の光景がすぐ目に浮かぶと、それがきっかけとなって、聴き手は強い切なさや寂しさ、怒り、悔しさなどを感じる。

いい曲というのはたいていの場合、歌詞を聞いているだけで、その情景がありありと浮かんでくるものだ。

だとすれば、英語の曲を不特定多数に紹介し、結果すこしでも「いい」と思ってもらうためには、和訳の際に「読んでいて絵が浮かぶかどうか」も考慮に入れるのがいいだろう。

もちろん、(上記したように)その点を重視するあまり、原曲にはないものを勝手に足したりする創作は極力控えたいところだが、原曲の歌詞に従った上で、訳の候補として挙がる日本語の表現を丁寧に比較吟味して、最終的に「最も自然に情景が浮かぶ訳」となるよう心がけている。

さらに言うなら、「英語のできる人たちが、その曲を聴いているときに思い浮かべているはずの光景」を、和訳を通して聴いている人にも見せられる訳が理想である。

この辺りは、訳の仕方によって大幅に質が上下してしまう。ぼくの経験上、歌い手がアメリカ人だろうがイギリス人だろうが、はたまたノルウェー人であろうが、結局は同じ人間なので、歌に出てくる経験や感情に、日本人が理解できないほどの差があることはそうそうない。

だから、訳がうまければ、だいたいの曲は日本人でも共感できるものになる。

ところが、本来なら「まるで自分のことを歌ってくれているみたいだ!」となるはずの名曲も、ところどころ訳が拙いだけで「なんかよくわかんなかったな。まあ洋楽だしそういうこともあるか」というようなフワッとした印象で終わってしまうことにもなるので注意が必要なのである。

たとえば、現時点でぼくのチャンネルにおいて最も再生されている、Sigrid と Bring Me the Horizon による『Bad Life』という曲があるのだが、この曲の二番の歌詞を 2 通りの訳で見てみよう。

まずは、「絵が浮かぶか」を意識せず、直訳っぽく訳した場合:

Everything's backwards
すべてが逆向き
and I'm hangin' on

ぼくはしがみついている
No matter how hard I try
どれだけ頑張っても
I always come undone

いつもほどけてしまう
Backed in a corner
追い詰められて
uncomfortably numb

不快なくらいに麻痺して
Watching myself become
自分がだれかの影に
a shadow of someone

なっていく様を見ている

歌詞で歌われていることを過不足なく表してはいるが、これではいまいちピンと来ない。像がぼやけたままでは心に刺さらないので、実際の動画では以下のような訳をしている:

Everything's backwards
いつだって向かい風
and I'm hangin' on

必死でしがみつくのに
No matter how hard I try
どんなに頑張ったって
I always come undone

いつも振り落とされるんだ
Backed in a corner
逆境に立たされて
uncomfortably numb

心も麻痺してきた
Watching myself become
もうかつての自分は
a shadow of someone

見る影すらない

どうだろう。言っていることはほぼ同じでも、こちらの方が読みやすく、また情景がイメージしやすくなったのではないだろうか。

こんなに短い一部分でも、細かい語尾や言葉選びを吟味するだけでこれだけの差が出てくるのだから、これが一曲全体となれば、こういったところに気を配っているかいないかによって、曲を聞き終えた後のイメージがガラッと変わるというのは想像に難くない。

というわけで、「英語の歌詞を聴いたとき頭に浮かんできた光景が、その日本語で十分表現できているのか?」という自問は、訳が完成するまで何度も何度も繰り返している。


4. 日本語として自然か

そして、訳の日本語を読んでいる際に「〈日本語として〉自然か、違和感がないか」という点についても細心の注意を払っている。

さきほどの点にも関わるのだが、日本語として不自然だと、その違和感の方に意識が向いてしまうため、聴いていて絵が浮かびづらい。

また、違和感がないだけでなく、日本語として〈美しければ〉、なおのこと良い。これはいつも動画の概要欄にも書いているのだが、「歌詞」というのは一種の芸術作品なので、メロディがなかろうがそれ単体でも、その美しさに価値が認められるものである。

そういうものを日本語にするわけだから、訳の日本語が稚拙であっていいわけがない。

誤字や脱字、文法的にエラーしている日本語は論外として、ほかにも「同じ言葉の繰り返し」や「直訳過ぎて、日本語として違和感アリアリの訳」なども、可能なかぎり避けたいところだ。

もちろん、このうち最後に点に関して、「直訳から来る多少の違和感については、むしろ残す方がいい」とする考え方もあるかもしれない。そもそも違う言語で書かれた歌詞なわけだから、完全に不自然さを取ってしまったら「洋楽である」という感覚まで消し去ってしまうのではないか、ということだろう。

これは、たしかに一理ある。だから、こういった理念に則って、思いっきり直訳っぽい訳があっても、(誤訳でなければ)否定しようとは思わない。

たとえば、Coldplay が 2021 年に出したアルバムの中の『Let Somebody Go』というバラードを見てみよう。

この曲では、愛する人と離れてしまった語り手が、相手との日々を思い出しつつ別れの辛さを嘆くのだが、その冒頭に次のような歌詞が出てくる:

You gave everything this golden glow
[直訳]きみはすべてに金色の輝きを与えた

この歌詞をまず上のように直訳してみて、ぼくは「なんだか日本語として不自然だな。日本人には耳馴染みのない表現だ」と感じてしまった。聴いているだれもが一瞬、「ん?『すべてに金色の輝きを与えた』って、つまり、どういうこと?」と考えてしまうだろう。

せっかくここまで情景を想い浮かべつつ感傷に浸って聴いていた人も、そういう「ん?」がすこし入るだけで、感情移入を中断されてしまうのだ。心地よい音楽体験を邪魔するこのようなノイズは、できれば避けたいというのがぼくの正義である。

「原曲の歌詞で歌われている内容を極力変えずに、なおかつ日本語として最も自然できれいな訳」をしばらく考え抜いた結果、ぼくはこの箇所を、以下のように訳すことにした:

これなら、日本語として自然なので、さきほどの直訳より聴いていてスッと理解できる。「日本語として自然かどうか」でどれほどの差が生まれるのか、理解していただけたのではないだろうか。

しかしここで、「あくまで英語的表現に忠実に、多少の違和感はあってもよい」と考える人は、「きみはすべてに金色の輝きを与えた」のような(やや日本語としては不自然な)訳をするかもしれない。

ただどちらの訳も「誤訳」ではなく、これは単純に正義の違いから来る差であるので、だれにもなんとも言い難い。

結局のところ、「意訳」と「直訳」は二者択一ではなく「どちらに寄せるか」の問題なので、「日本語としての自然さ」を取れば「意訳」の側に、「外国語ならではの違和感」を取れば「直訳」の側に寄っていく。

そしてこのときのさじ加減、つまり「両者の間のどの辺りに来る訳がベストであると考えるか」は、人によって違ってくるのが当然だ。

ただぼく個人としては、さきほども書いたように、「英語のできる人たちが、その曲を聴いているときに思い浮かべているはずの光景」を日本人の聴き手に想起させる訳が理想なので、

聴いている最中に「なにこの表現?どういう意味?」というノイズが極力入らないくらいには「意訳」を、しかし「原曲ではそこまで言ってないでしょ」とならないくらいには、英語の歌詞に忠実な訳を心がけている。

「『このアーティストがもし日本人だったら、きっとこんな感じで歌っていたろうな』という和訳」、言いかえれば、「読んでいる日本語がそのアーティストの声で再生されるような訳」ができれば言うことはない。

――――― と、ここですこし脱線 ―――――

なお、「日本語としての自然さ」を正義とするぼくであっても、場合によっては「外国語ならではの違和感」を取ることもある。

たとえば、同じ『Let Somebody Go』に出てくる ”I loved you to the moon and back again” という歌詞:

”love someone to the moon and back again”(月に行って帰ってくるくらいだれかを愛している)というのは、愛の強さを表すときの英語の慣用表現なのだが、日本語ではこのような言い方はしないので、直訳するとかなり違和感が出てしまう。

日本語でこれに対応するような表現を使い、「海よりも深くきみを愛していた」などとすれば自然だが、上の画像を見ての通り、ぼくはこの箇所をかなり直訳っぽく訳している。

これは、この曲が収録された Coldplay のアルバム『Music of the Spheres』が、「宇宙空間」や「異星」をテーマにしているものであり、収録曲の歌詞の随所に、星や天体をイメージさせる単語が散りばめられていたからだ。

「きみを本気で愛していた」と言うための表現など本来無数にあるはずなのに、その中からこの ”to the moon and back again” が選ばれたのは、そこに moon(月)という単語があるからだ(と、ぼくは思った)。

なので、(いくらその方が自然だからと言っても)ここで訳から「月」という単語を抜いて「海よりも深く……」などとしてしまうと、作り手がアルバムを通して仕掛けた、工夫や遊び心が台無しになってしまうと考え、このときは直訳することにした。

この例からもわかる通り、「直訳か意訳か」という問題は、「白か黒か」のようにハッキリと分かれるものではなく、訳者はむしろ「どれくらい直訳/意訳をするか」という白黒の間のグラデーションを、行単位でつねに揺れ動いているものなのだ。


5. 行全体の音の長さが合っているか

ただの英文和訳と歌詞の和訳の決定的な違いは、おそらく「その訳を読んでいる人が同時に曲を聴いている」ということである。

したがって、いくら原曲の歌詞で言っていることを正確に訳せていたとしても、結果できあがった文の長さがあまりにメロディとかけ離れたものだと、あまりいい訳であるとは言えない。

時間的には同じ 2 秒とか 3 秒であっても、日本語と英語を比較してみると、たいていの場合、英語の方がたくさんのことを言えてしまう。だから、英語の歌詞を和訳しようとするときに、原曲で言っていることを余すことなく言おうとすると、十中八九、日本語の方が長くなる。

しかし、和訳を読んでいる人は同時に曲を聴いているわけだから、3 秒間の一行であれば、やはりその訳も 3 秒程度で読み切れる日本語を心がけたい。

たとえば、(さきほども名前のあがった)Charlie Puth の『Smells Like Me』という曲の B メロ(Pre-chorus)は、一行あたりの時間がかなり短いため、和訳したとき、それに合う訳を見つけるのにとても苦労した。

もし時間的な制約がなければ、きっと次のように訳しただろう:

Tell me, do you ever miss me
when I'm gone?
ねえ、きみはいなくなったぼくを
恋しく思ったりしないの?
Wonderin' what body I'll be on
ぼくが次にどんな人に乗り換えるんだろう
って考えたりさ
We can reconsider if you want
きみが望むなら、やり直してもいいよ
Baby, don't forget about me ever-er
だからお願い、ぼくのことは忘れないでいてよ

しかしこの箇所は、一行がすぐに終わって画面が切り替わるので、このように訳をつけてしまうと、動画をいったん止めないかぎり、訳を読み切れなくなってしまう。

なので動画では、多少わかりづらくなることを覚悟した上で、違った訳を充てている。これは、実際の動画でメロディ付きで観てもらった方が理解してもらえると思うので、以下に動画を添付しておく(*再生すると、ちょうどその箇所から再生されるようになっています)。

「この訳が正解です」と言いたいわけでは全くない。ただ、「動画を止めずに読める長さの訳を目指したらこうなった」という一例として見てほしい。

この動画は、曲自体とても好きなので(*「好きな曲だけ訳しているけど、中でも最上級に好き」という意味)、たまに自分で観返したりもするのだが、この部分に差しかかるたび当時の苦労が呼び起こされるし、よほど頭を悩ませたのか、二番の同じ箇所では(歌詞が同じであるにもかかわらず)また違った訳を充てている。

そしてこの曲以外にも、メロディに合わなくなることを避けて、言葉を削ぎ落したという例は本当にいくつもある。

「原曲の情報量はそのままに、メロディにもぴったり合っている訳」が理想であるのは間違いないが、ときにはメロディとの調和を優先して、英語の歌詞で言っている内容を(些末なものなら)切り捨てるという判断をしたこともある。

「そこまでして気を遣うべきことか?」と思っている人もいるだろう。

ただ、これと非常に似ている話で、以前プロの翻訳家の方に、映画の字幕翻訳においては「 1 秒あたり 4 文字」という絶対的ルールが存在している、と聞いたことがある。つまり、ある台詞が 2 秒で話されているものだった場合、その訳として充てられる日本語はわずか 8 文字しかないということだ。

この 4 文字という制限は、「これが老若男女が 1 秒あたりに無理なく読める文字数だから」という理由で、映画字幕界に確立されたそうである。

なら歌詞の和訳も、「音を伴った翻訳」という点では共通しているわけなので、(そこまで厳密にやるのは難しくても)やはり「和訳とメロディの時間的な調和」は常に意識しておく方がよいのではないか。


+α   原曲の韻が保てているか

それでは最後に、以上の 5 点と比べてしまうと優先順位は低めだが、和訳の際に「できれば達成したいな」程度に意識していることとして、「原曲の韻が保てているか」という点についても触れておきたい。

(詳しくは上の記事に書いたが)日本語の曲とハッキリ違い、英語の曲では、どんな曲でも韻を踏まなければならない。

「韻」や「ライム」と言えばラップやヒップホップのイメージだろうが、洋楽の場合、ロックでもダンスミュージックでも、ジャズでも切ないバラードでも、とにかく常に韻を踏む。

たまに「洋楽はリズムの良さがいいよね」というコメントを聞いたりするのだが、それにはおそらく、このライムこそが一役かっている面がある。

ライムから来る語調の良さが洋楽の魅力のひとつなら、それを和訳して紹介するときも、なるべくその点を損なわないよう意識したい。

これに関してはどの曲を例に出してもいいのだが、ここではイギリスの若きロックバンド Pale Waves の楽曲『Reasons to Live』の、二番からサビまでの歌詞を(まずは韻[ライム]を意識しなかった場合の訳付きで)見てみよう:

I'm scared to go to sleep
夜寝るのも恐い
Demons watching over me
悪魔がわたしを見ているようで
How am I supposеd to breathe
どうやって息をすればいいの
When I feel this fuckin' wеak?
こんなにも弱っているのに
You are the medicine to get me by
あなたはわたしを救ってくれる薬
You are the therapy to ease my mind
心を癒してくれるセラピー
When I fall, you catch me every time
つまづいても、あなたが手を取ってくれる
When I'm falling, you come calling
落ちていても、あなたが助けに来てくれる

英語の歌詞に注目してみると、ここでは、最初四行の末尾にある単語が「 sleep / me / breathe / weak 」となっており、すべて「イー」という母音で韻を踏んでいる。そしてその後の三行は「 by / mind / time 」となっており、今度は「アイ」という音で揃えている。

和訳において、ライムの保存を意識しなければ、上のような訳をしてもいいところだが、さきほども書いたように、英語の曲ではこのライムこそが語調の良さを醸し出しているところがあるので、できれば訳の日本語においても、原曲と同じ母音で韻を踏みたいところ。

実際にどのように訳したのかは、これも音声とセットで読んでもらった方が、語調の良さを実感してもらえると思うので、ぜひ以下の動画で確認してみていただきたい(*再生すると、ちょうど二番から始まります)。

和訳でも「イ」と「アイ」で末尾の母音を揃えることで、原曲とほぼ同じ韻を踏んでいるのが、わかっていただけただろうか。

そして、音源として聞こえる英語の最後の音と、和訳を読みながら頭で再生される日本語の音とが揃っているので、(そうでない場合と比べると)より没入感があるように思う。

さきほどは、曲の和訳と映画の字幕に共通していることとして、「訳を読むとき同時に音が流れている」というポイントについて指摘したが、同じ「音」でも、(台詞と違って)歌詞には「ライム」という特徴があるのを忘れてはならない。

「この特徴(というか制約)がなければ、もうすこし自由に、もっと違う訳にすることだってできただろうに」と毎回思うが、やはり歌詞も「詞」である以上、その一行を、「ただの英文として見たときの訳」と「歌詞として見たときの訳」は、違っているべきなのだと思う。

とすれば、「元々あった韻が消えてしまっている訳」と「韻をそのまま保持した訳」なら、後者の方が優れていると言えるのではないだろうか。




…… 以上、洋楽の歌詞を和訳する上で大切にしていることを紹介してみた。厳密に言えば、ほかにも意識していることはあるが、今回説明した 5, 6 点に関しては、(例として出した曲だけでなく)漏れなくすべての動画に共通しているポイントだと言っていい。

いろんなことを気にしていけば気にしていくほど、難儀を極める作業ではあるが、その分これらの条件を満たす「最適な訳」が見つかったときの快感も大きく、そういった気持ちからなのか、訳し終えたときにはその曲が(もともと大好きだったのに)さらに好きになっている。

このチャンネルの動画を通して、いろんな人が洋楽を聴き、訳を読みながらその魅力に触れ、最終的には自分で曲を開拓したり、(自分で意味を理解できるよう)英語を勉強しはじめたりなどしてくれたら、訳した者としてこれ以上の喜びはない。

最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。


この記事が参加している募集

英語がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?