断捨離に感じていた違和感|残すものも、手放すものも。
私には『片付けさん』という親友がいるんじゃないかってくらい、整理整頓、お片付けというものが大好き。手が空けば片付けて、忙しくなれば片付けて。要はいつも片付けている。なぜそんなにも片付けが好きなのかと聞かれたとしても、なぜだろうこればっかりはきっと生まれ持った才能と呼んでもいいくらいのものすぎて理由なんて応えられないのだけれど、とにかく片付けが好きなのである。
そして片付けにも色々あるけれど、その中にも「断捨離」というものも片付けの中の一種だと思っている。ミニマリズム的な考えが今こうして世の中でとても大きなムーブメントとして起きている中で、「ものを持たない暮らし」をする人が増え、物を捨てること、物だけでなく色んなしがらみを手放すことを「断捨離」と呼んでいる。
片付けを愛する私は当然、断捨離魔でもあった。なんでも捨てて捨てて捨てて、切って切って切って。私自身、モノを持たない暮らしはとても居心地がよく、必要最低限で日々暮らすことが楽しいと感じられるタイプ。こんまりさんとかも言うように、ちゃんと心がときめくものを残すことで、生活の質が上がることはしっかりと実感できている。それなのにも関わらず私は、そうしてモノを、そしてその他のしがらみをたくさんたくさん手放している中で、捨てれば捨てるほど色んな荷が降りて楽になるはずが、もっと捨てたい、もっと身軽になりたいと、捨てても捨ててもキリがなくなっている自分が出てきたことにも気付き始めた。
最近読んだ本、八千草薫さんの『まあまあふうふう。』という本の中に、こんな言葉が書かれていた。当たり前のように捨てて、当たり前のように手放して、当たり前のようにそれで楽になると思っていた私にとっては、なんとも衝撃な文であった。と同時に、実は私が心の奥底で感じていた断捨離をしている自分への違和感がここにあったようにも感じられた。
自分で求めて手にしておいて、いらなくなったからはいさよなら。それが私にとっての断捨離であった。さらに捨てることが好きなのとは裏腹に、とてつもないくらいの「もったいない族」でもある私は、捨てるのを楽しみながらも捨てる時にももったいないもったいないと思いながら捨てている自分もいるという、ものすごいめんどくささを発揮していた。
この文を読んで私は、残すものへのときめきと同時に、手放すものへ想いを馳せることができていない自分に気付かされた。そして手放すより何より、本当はひとつひとつをもっともっと大切にしたかったことにも。一度愛して自分の元に迎え入れたものたちに心を寄せて、しっかり日々「ありがとう」を伝えながら接すること。それは残すものも、手放すものも変わらない。残すものだけに愛情をかけて、手放すものはどうでもいいはずがない。ものは捨てないほうがいいと言いたいわけではないけれど、ちゃんと迎え入れたなら、ちゃんと送り出してあげること。どちらも価値は同じであって、手放すものを「いらなくなったから」といとも簡単に(しかも微妙にもったいないという利己的な気持ちを持ちながら)捨てていた自分がなんだかとても恥ずかしくなった。
今まで私は、断捨離断捨離と頭ごなしに捨ててきたけれど、捨てながらも心の奥底で感じていた断捨離への違和感は、心ない断捨離をしていた自分への声だったようである。
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