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「死ぬ」という日常の一場面で、私は。

「死」について考えることが増えた。というのも、最近読んでいる本が主人公が死ぬ内容だったりホスピスの話だったり(大好きな小川糸さんの本「ライオンのおやつ」!)、死んだ後の世界の話だったりするからだろうが。

私は死ぬ瞬間何を思い出すのだろうと、ふと思う。それが思ったよりすぐ来るものなのか、まだまだ先の、体中に数えきれないくらいシワが刻まれた時なのかは、今の時点では分かりようがないけれど、確実に一寸たりともずれることなく、ベストなタイミングでそれは間違いなくやってくる。

実際、何を「思い出すだろうか」というその時にならないとわからないイメージより、何を「思っていたいか」という今の私がその時どうなっていたいか願うイメージが、今現在の生き方の太くて確実な軸になるような気がした。

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良いのか悪いのか、私は今まで人が亡くなる場面に遭遇したことがない。亡くなった後の祖母を目の前にしたことはあるし、目の前で息を引き取る我が愛犬を見送ったことはある。しかし、亡くなる瞬間の誰かと会話をしたり、その瞬間にどんな思いを馳せているのかなどを直接聞くという経験は、今までに一度もない。

ゆえにそういった体験談風なことは、私の限られた想像の範囲でしかイメージができないし、そういった話に触れることも小説などを通しての物語としてしか知り得ることがない。

正直、死ぬ直前に何か考えていられるほど時間の猶予なく命が途切れてしまう可能性もないわけではないし、死と向き合う間も無く死後の世界に移行してしまっていることだってきっとあるだろう。(中には一度死んで戻ってくる場合もあるのだとか…!あ、それも物語の中の話か)だからこそ、きっとまだ死がリアルに感じられない今のうちから(とはいってもあと10分後に死ぬ可能性もないわけではないからこそ)「死」に思いを馳せてみる時間をこうして意図的に持ってみるのも、実に豊かな時間なのだと思う。

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きっと私は、「当たり前」を思い出す。それだけはなんだか揺るがない事実な気がしている。きっと当たり前にあったたわいもない日常を思い出すし、たわいもない当たり前な日常を思い出していたい。

この人間のカラダを手放した後に感じることができなくなるものを、私はきっと愛おしく思うのだろう。この身を離れた後にはきっと五感がなくなる。特に触覚は無くなるんじゃないかなあと想像を巡らせてみるけれど、この身体を通して誰かや何かに触れることができた感覚を、きっと大切に大切に噛み締め直すことになりそうだ。

感覚的なこと以外で何か思うことがあるとするのなら、私はこの人生で「何を成したか」という項目についてはきっとほぼ振り返ることがないような気がしている。今世にどれだけの爪痕を残せたか、どれだけ人の記憶に残る人生を歩めたか、とか。もちろん死ぬまでのカウントダウンが長ければ長いほど、そういったことも考えることもないわけではないと思うけれど、死ぬ直前にそれを考えているかというと、きっと違う。

植物は日々生まれ、日々死んでいくけれど、「ここに我が命を永遠に!」などという気合のある意図はきっと存在していない。そうであるように生まれ、そうであるように消える。嬉しいも悲しいもなければ、成功も後悔もきっとない。

つまり「死」でさえも、ただそこにある日常の中の何気ない一場面というだけである。

私もそのように「死」に近づいていきたい。そして、「生」という日常から「死」という日常までの間に私の命に刻まれてきた、魂の記憶を大切に愛でていたいなと思う。

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そうして死について考えているけれど、やはり死に向かっていくのはそうは言っても怖い。だって誰も死んだ後の世界のことは教えてはくれないから。どうなるかが一切わからない世界に思いを馳せるのはわからないからこそ恐怖でしかないし、避けたいと思うのがきっと人間の本能なのだろう。ということは、自分で自分にとっての死後の世界を都合よく決めつけてしまって、それを正しいと思い込むことができるのであれば、もしかしたら死への怖さは簡単に和らぐのかもしれない。

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