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スピノザが考える『自由意志』について

先日、YouTubeでエアレボリューションという番組で、國分功一郎氏がスピノザの解説をしていたので、視聴した。

國分氏は、6年前にも、テレビで「NHK100分de名著スピノザの『エチカ』」を解説していたのを観ていた。

そのとき、「自由意志」という言葉が印象深かったが、その内容については曖昧なままだったので、今回改めて、國分功一郎著「NHK100分で名著」を再読してみた。

すると、まったく理解していなかったことが分かった。どう分かっていなかったかを、これから、描くつもりですが、かなり気が重いです。

國分氏は、パソコンのOSが違えば作動しないように、スピノザ哲学を作動させるためには思考OSを入れ替える必要があると述べているからです。

まず、スピノザが考えている自由の定義から始めます。

自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。(第一部定義七)

日本放送協会,NHK出版. NHK 100分 de 名著 スピノザ 『エチカ』 2018年 12月 [雑誌] (NHKテキスト) . NHK出版. Kindle 版.

人間には身体的な有限性があり、腕の場合、可動範囲があるので、腕の動きには、必然的な法則が課されています。だから、ここで言われている必然性は、その人に与えられた身体の条件があると考えられます。

ただし、人間は自分の身体がなしうることの全てを正確に理解していないので、自分の動作を確認しつつ、自らの身体の必然性を知りながら、少しづつ自由になっていくことになります。

そして、定義七では、自由の反対の概念は「強制」とされている。

定義の前半の「必然性」は、自由の反対と説明されていますが、これは「日常的にはそう言われている」と述べている程度であり、「強制」に力点があるからこそ、「むしろ」という言葉がその直前に置かれている、と國分氏は解説しています。

強制とはどういう状態か。それはその人に与えられた心身の条件が無視され、何かを押しつけられている状態です。その人に与えられた条件は、その人の本質と結びついています。ですから、強制は本質が踏みにじられている状態といえます。

日本放送協会,NHK出版. NHK 100分 de 名著 スピノザ 『エチカ』 2018年 12月 [雑誌] (NHKテキスト) . NHK出版. Kindle 版.

強制とは、外部の原因によって存在の仕方が決定されている状態のことであると言う。つまり、強制された状態とは外部の原因に支配されているということになる。

すると、自由であるとは、自分が原因となることであり、これをスピノザは「能動」という言葉で説明している。

ところが、自分の行為の原因になるとは、スピノザによれば、すべては神という自然の内にあり、すべては神の実体の変状であるということになる。

「神という自然に内にあり」とは、スピノザは「神すなわち自然」という汎神論者であると言われていて、森羅万象あらゆるものが神であるという考え方です。

といっても、日本のような「八百万の神」ではなく、だだ一つの神です。スピノザが考える神は、世間一般にイメージするそれとは大きくことなります。ではどんな神なのかを箇条書きします。

「神は無限である」⇒無限とは限界がないこと⇒神で有る無しの限界線がひけない⇒神には外部がない⇒すべては神の中にある

キリスト教でいう絶対者としての神に反するから、無神論者としてスピノザは追放された。

すでに古代インド哲学の概念である「梵我一如」について投稿しましたが、これは梵(ブラフマン:宇宙を成立させる原理)と我(アートマン:個人を成立させる原理)同一であるというものでした。この考え方と通底するものを感じます。

変状とは、ある物が何らかの刺激を受け、一定の形態や性質を帯びることを言います。たとえば暑さをいう刺激を受けると、発汗という変状が身体に起こるようなことです。

神の変状ということであれば、人間の存在や行為は神を原因とし、人間が原因ではないという意味になります。

普通、能動と受動は、行為の方向、行為の矢印の向きで理解されます。行為の矢印が、私から外に向かっていれば能動であり、逆に私に向かっていれば受動となります。

スピノザの考え方を、國分氏は、カツアゲの例で説明しています。

カツアゲにあって、お金を取られた時、自分からお金を手渡した場合は、行為の矢印からは、能動となるが、スピノザの能動/受動の概念ならば違ってきます。

スピノザはその行為が誰のどのような力を表現しているかに注目します。銃で脅してくる相手に私がお金を手渡すという行為は、その相手の力をより多く表現しています。その相手には、他人に金を差し出させるような力がある(といっても、それは大部分が銃のおかげですが)。私の行為はその相手の力を表現しているわけです。  

私の力が全く表現されていないわけではありません。私には手を使ってポケットからお金を取り出す力はあり、その力はその行為に表現されています。しかし、圧倒的なのはその相手の力です。その意味で、私はこの行為の十分な原因にはなっていない。だから私は受動的なのです。

日本放送協会,NHK出版. NHK 100分 de 名著 スピノザ 『エチカ』 2018年 12月 [雑誌] (NHKテキスト) . NHK出版. Kindle 版.

【呟き:と、ここまで、綴ってきましたが、中々、本丸の「自由意志」にたどりつきそうにありません。でも、もうちょっと頑張ってみます。】

完全に能動であるのは、自らの外部を持たない神だけというのです。

ただ、完全に能動になれないにしても、受動の部分を減らして、能動の部分を増やすことはできるという。度合いがあるということです。自由も同じで、完全な自由はないが、これまでよりはより自由になることはできるのです。

スピノザが言う自由とは能動的になることであり、自発性のことではない。

自発的であるとは、何もからも影響を受けずに、自分が純粋な出発点となって何事かをなすことを言うが、スピノザ哲学においては、そのような自発性は否定されます。

なぜならば、いかなる行為にも原因があるからです。自分が自発的に何かをしたと思えるのは、単にその原因を意識できないからです。

ちょっと分かりにくいが、國分氏の解説によると、私たちの意識は結果だけを受取るようにできているというのです。

物事の結果だけを見て、自分が自発的に決めたと思い込んでいるというわけです。結果には原因があるが、その原因を十分に理解することは人間の知性にとっては実に困難だというのです。

この自発性は一般に「自由意志」と呼ばれています。

自由意志とは、純粋な出発点であり、何者からも影響も命令も受けていないものと考えられています。しかし、そのようなものは人間の心の中には存在しえない。人間は常に外部からの影響と刺激の中にあるからと言う。

精神の中には確かに意志と感じられるものが存在しているが、それも何らかの原因によって決定を受けている。したがって意志は自由な原因ではないと言うわけです。

さて、ここからさらに、ややこしい話しになってきます。

意志と意識は違うというのです。

意志の自由を否定したら人間がロボットのように思えてしまうとしたら、それは人間の行為をただ意志だけが決定していると思っているからであり、それは意志が一元的に行為を決定しているからだと言う。

たとえば、歩く動作のばあい、人体の全体に関わっています。人体には様々な骨、関節、骨格筋から構成されており、それらが複雑な連携プレーを行うことではじめて歩くことができるのです。

ところが、人間の意識はそのような複雑人体の機構を全て統制することはできない。だから、身体の各部分は意識からの指令を待たずに、各部で自動的に連絡を取り合って複雑な連携をこなしているというのです。

現代の脳神経科学では、脳内で行為を行うための運動プログラムが作られた後で、その行為を行おうという意志が意識の中に立ち現れてくることが分かっています。意志はむしろ運動プログラムが作られたことの結果なのです。

日本放送協会,NHK出版. NHK 100分 de 名著 スピノザ 『エチカ』 2018年 12月 [雑誌] (NHKテキスト) . NHK出版. Kindle 版.

行為は多元的に決定されているのであり、意志が一元的に決定しているわけではないということです。

「意志」と「意識」は混同しやすいので二つの言葉をきちんと区別するあります。スピノザは意志が自由な原因であることは否定していますが、私たちが意志の存在を意識することは否定していないのです。

意識とは何かというと「観念の観念」とスピノザは定義しているのです。「観念の観念」とは、精神の中に現われる観念についての反省のことだと言う。

観念について観念が作られること、言い換えれば、ある考えについて考えが作られること、それが意識です。意識というのは観念に対するメタ・レベルであり、観念に対して派生的、二次的なものだということになります。ですから、意志として感じられる観念が精神の中に現れた時も、それについての観念をメタ・レベルから形成することで、その意志が意識されることになるわけです。

日本放送協会,NHK出版. NHK 100分 de 名著 スピノザ 『エチカ』 2018年 12月 [雑誌] (NHKテキスト) . NHK出版. Kindle 版.

意志と意識は全く別物なので、意志が自由であることの否定は、意識の存在の否定とは関係のないことなのです。

意識は無力ではないが、万能でもないので、意識では身体の複雑な機構を統制することは不可能ということです。

4千字を超えて、ようやく、自由意志にたどりつくことができました。

哲学の流れからすれば、スピノザは亜流という捉え方をしてきましたが、國分氏の解説により、奥の深さを感じました。『エチカ』は読みづらいので、これまで敬遠してきましたが、真剣に勉強する必要があるようです。

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