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くまったな〜

 音楽レビューサイトの編集者をするぼくは小太りだ。彼女はいたりいなかったりする。もの好きな人に告白されて、付き合って、フラれる。ふられる理由はよくわからない。ぼくに誠意が足りないのだろう。短歌がマイブームだ。

●愛らしく「プーさんみたい」とくっついて、あなたすべてを愛してくれた。

 小太りの人間には、よくあることだろう。くまっぽいと言われる。嬉しくはない。彼もやはりぼくのフォルムから連想したのだろうか、大学時代の友人に頼まれて、2日前の土曜日、くまの、正確にいうとくまもんの着ぐるみを着るアルバイトを引き受けた。
 駅のトイレでくまもんに着替えた。思ったより違和感はない。着ても暑くはないし、呼吸も楽だ。視界も良好。両国駅近くの町内会の子どもの日のイベントで、子どもたちと遊び、写真を撮ったりするアルバイトだった。でも、普段から本物の力士を見慣れている彼らには、着ぐるみのくまもんは無味無臭だったようで、期待したより、反応は薄かった。アルバイト代の1万五千円を受け取って、帰ることにする。両国駅の改札を通り、トイレに入る。着ぐるみが、どうしても脱げない。体に完全にフィットしてしまったようだ。シャワーでも浴びたら、脱げやすくなるだろうか。仕方がない、一度家に帰ることにする。

 家について、シャワーを浴びるが、より密着してしまった。眠いが、お腹も空いた。コンビニでビールとおつまみでも買って、寝ることにしよう。ここは東京だ、着ぐるみ着た客の接客は、日常に毛が生えたようなものだろう。それでも、近所で一番客の少ないコンビニを選んだ。仲の良さそうなおじさん店員2人は、今日も一緒に出勤していて、着ぐるみのことを、ちゃんと見て見ぬふりをしてくれた。ビールを飲んで寝た。

 翌日、日曜は特に用事はなかった。朝起きる。着ぐるみは、前日よりも自分と一体化している気がした。昨晩飲んだ、ビールの影響か、中にいるぼくの方が大きくなってしまった。脱げそうにない。
 休日に誰にも会わないのは平気だった。近所の名画座に行きたいところだけれど、それは控えて、家で観ることにした。Netflixで泣けそうな1本を選ぶ。体の中の水分を少しでも抜きたい。
 『素晴らしき哉、人生! 』は、やはり号泣できた。エンディングで主人公はその人徳で救われる。全ての人生が因果応報なら、ぼくが今、着ぐるみと一体化しそうになっているのはどうしてなのか。用事のない今日は、まだどうにかなったけれど、明日は出勤しなければいけないのに…明日の朝、目覚めたら、着ぐるみが剥がれていますように。

●明日の朝、目が覚めたなら、変われると思ったけれど、やはりくまもん

 月曜の朝は静かにやって来た。月曜定番の憂鬱にさせる雨じゃなくて、快晴だった。夏がすぐ近くまで来ているのが感じられる陽気だ。でも、ぼくは憂鬱だった。ぼくは着ぐるみの中、そのままだったから。
 通勤電車には乗らなくて良かった。徹夜での残業を見越して、会社の近くに住んでいるから。満員電車の中での着ぐるみは、考えただけて蒸し暑い。いつものようにぼくが一番最初に出勤した。同僚が出勤するのを、新譜を探しながら待った。いい新譜が出ていて、集中してザッピングしていたら、同僚が出勤してきた。
 「おはよう」と言い合う。目が合うが、無反応だ。他の同僚も、特に不思議がる様子はない。彼らにしてみれば、くまっぽい人間が、よりくまっぽくなっただけのことなのか。それなら、それでいい。ダイエットして、くま感を減らしてやろうじゃないか。ローカーボ・ダイエットについて調べてみよう。中のぼくが痩せたなら、いつの日か脱げる日もくるかもしれない。脱げたあかつきには、ぼくの席に、くまもんの着ぐるみを置いておいて旅に出ようか。きっと、中の人がいなくなったことに気付かない。

●くまったな〜。くまの着ぐるみ着るバイト。脱げなくなってくまとして生きる。

#小説

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